クラブ創設 1913年 / 本拠地 パルマ / ホームスタジアム エンニオ・タルディーニ / 収容人数 22352人 /クラブカラー 白・黒 / 黄・青 / セリエA最高順位 2位
- パルマのエンブレムは十字軍戦士に由来する黒い十字とクラブカラーである黄色と青が特徴
- パルマラットの破綻によりパルマは暗黒期を迎える
- 1998-99シーズンパルマ黄金時代メンバーを紹介 2001-02シーズンには日本代表中田英寿が在籍
- GKジャンルイジ·ブッフォン (在籍期間1995~2001年) イタリア代表
- DFファビオ·カンナバーロ (在籍期間1995~2002年) イタリア代表
- DFリリアン·テュラム (在籍期間1996~2001)フランス代表
- DFネストル・ロベルト・センシーニ (在籍期間1996~2000年) アルゼンチン代表
- MFディノ・バッジョ (在籍期間1996~2001年) イタリア代表
- MFファン・セバスティアン・ベロン (在籍期間1998~1999年) アルゼンチン代表
- FWエルナン・クレスポ (在籍期間1996-2000)アルゼンチン代表
- FWエンリコ・キエーザ (在籍期間1996-1999)イタリア代表
- 現在は日本代表GK鈴木彩艶がパルマでプレー
パルマのエンブレムは十字軍戦士に由来する黒い十字とクラブカラーである黄色と青が特徴
Embed from Getty Imagesパルマのエンブレムはクラブの愛称である「クロチャーティ(十字軍戦士)」に由来する黒い十字が特徴。
クラブカラーである黄色と青が使用され、伝統的な要素と現代的なデザインが融合されている。
ホームスタジアムでもあるエンニオ・タルディーニは収容人数2万3千人とピッチと観客席の距離も近く、スタジアム内のどの席からでも観戦しやすい作りになっている。
国際Aマッチも多数開催されていることもあり、筆者である私のお気に入りのスタジアムでもある。
1990年代初頭、地方都市の小クラブACパルマは、イタリア国内の大手食品メーカーでもあるパルマラット(乳製品が主)に買収されると豊富な資金力を後ろ盾に急成長を遂げ、瞬く間にビッククラブへのステータスを上り詰めることになる。
パルマラットに買収された1990ー91シーズンにACパルマはクラブ史上初のセリエA昇格を実現させる。
そのシーズンを皮切りに大型補強を繰り返すクラブ経営は、現代のマンチェスターシティやパリ・サンジェルマンのような衝撃をヨーロッパサッカー界に与えていたのをご存じだろうか。
1990-91シーズンにスウェーデン代表のトーマス・ブロリンやブラジル代表のGKクラウディオ・タファレルの獲得を決めると、セリエA昇格初年度からいきなり6位フィニッシュでシーズンを終える。
昇格2年目のシーズンにはアルベルト・ディ・キアーラを獲得すると、キアーラはクラブ史上初となるイタリア代表に選出され、パルマは昇格2年目にしてコッパイタリアのタイトルを獲得。
昇格3年目の1992-93シーズンにはコロンビア代表の韋駄天ファウスティーノ・アスプリージャの移籍を実現させるとUEFAカップウィナーズカップを獲得する。
初昇格の1990-91シーズンから2000-01シーズンまでセリエAで1桁順位でフィニッシュすると毎シーズンタイトル争いに絡むほど急成長を遂げることになった。
パルマラットの破綻によりパルマは暗黒期を迎える
「プロヴィンチアの奇跡」と謳われヨーロッパサッカー界を席巻したパルマだが、2003年に親会社パルマラットの経営破綻によりクラブは暗黒期を迎えることになる。
クラブは破産管財人の管理下に置かれ、財政難から主力選手を売却せざるを得ない状況に陥り、2004年にパルマACからパルマFC にチーム名を改称。
2007-08シーズンにはセリエA初昇格から実に18シーズンぶりにセリエB降格の憂き目に遭うが、翌シーズンには再びセリエAの舞台に舞い戻る。
順位も中位前後でフィニッシュするシーズンを繰り返していたが、迎えた2015-16シーズンには負債総額は2億1,844万ユーロ(約281億円)の負債の弁済に目処が立たなかったため破産が確定し「パルマFC」はついに消滅することになってしまう。
2015年7月に新たな代表者によってSSDパルマ・カルチョ1913 が創設され、セリエD(4部相当)へ所属することになるが、そこから様々な紆余曲折を経て2018-19シーズンにセリエAの舞台に舞い戻る。
ACパルマが健全経営を持続出来ていれば近い将来にセリエAでスクデットを獲得し、UEFAチャンピオンズリーグ制覇も夢ではなかったであろう。
1998-99シーズンパルマ黄金時代メンバーを紹介 2001-02シーズンには日本代表中田英寿が在籍
2001-02シーズンには日本代表の中田英寿も在籍し、ブラジル代表のアドリアーノとルーマニア代表のアドリアン・ムトゥと強力なトリデンテ(3トップ)を形成していた時代も記憶に新しいというか日本人はこの頃しか知らない人がほとんどだろう。
マンチェスターユナイテッド所属ベッカムとパルマの中田英寿がユニフォームを交換した画像がよく使われているが、この試合は親善試合だったというのを覚えていてほしい。
Embed from Getty Imagesそして最近では2024ー25シーズンから日本代表GKの鈴木彩艶が在籍していることで日本国内でも再びパルマが注目されている。
近年は残留争いを演じているパルマだが、黄金時代といえる全盛期のメンバーの中でも特に1998-99シーズンにコッパイタリアとUEFA杯(現ヨーロッパリーグ)の2冠を達成した最強メンバーを紹介していきたい。
Embed from Getty Images主なスターティングメンバー /基本フォーメーション 3-4-1-2
GK ジャンルイジ・ブッフォン(イタリア代表)
DF ファビオ・カンナバーロ(イタリア代表) / ネストル・センシーニ(アルゼンチン代表) / リリアン・テュラム(フランス代表)
MF アントニオ・ベナリーボ (イタリア代表)/ ディノ・バッジョ(イタリア代表) / アレン・ボゴシアン(フランス代表) / ディエゴ・フゼール (イタリア代表)/ ファン・セバスティアン・ベロン(アルゼンチン代表)
FW エルナン・クレスポ (アルゼンチン代表)/ エンリコ・キエーザ(イタリア代表)
GKジャンルイジ·ブッフォン (在籍期間1995~2001年) イタリア代表
Embed from Getty Imagesブッフォンのプロデビューは、1995-96シーズンにユース時代から在籍していたパルマで17歳9ヶ月でデビューを飾る。
身長192センチの恵まれた体躯と驚異的な反応速度とボールストップ技術は当時世界最高のGKと評され、パルマの全盛期にはブッフォンと3人のディフェンダーは真にゴールに鍵をかける「カテナチオ」と謳われ世界最高峰のディフェンスラインを形成していた。
プロデビューから3年後の1997-98シーズンには20歳の若さでアッズーリのメンバー入りを果たしワールドカップには1998年フランス大会から5大会連続でメンバー入りを果たす。
パルマには6シーズン在籍し通算220試合に出場し、UEFA杯などのタイトル獲得に貢献したのち、クラブの財政難と共にユベントスへ移籍することになる。
ユベントス移籍2シーズン目の2002ー03シーズンには、UEFAチャンピオンズリーグ決勝でミランとのPK戦の末に敗れて準優勝に終わるが、このシーズンはUEFAチャンピオンズリーグのMVP(GKとしては史上唯一)と最優秀GKに選出されている。
また、2004年にはFIFA100周年記念ではFIFA100(偉大なサッカー選手125人)に選出されると、2006年にはワールドカップの活躍もありバロンドール受賞が噂されたが、投票結果は惜しくも2位に終わりGKとしてだけではなくサッカー選手としても頂点まであと1歩のところまで上り詰めることになる。
2021ー22シーズンにはパルマに20年ぶりに復帰を果たしたこのシーズンには、GKとして史上初の通算500試合無失点記録を達成する。
また代表では1997年~2018年まで実に20年以上に渡りアッズーリのゴールマウスに君臨し、代表通算175試合出場の記録を残し、2023年8月2日プロデビューを飾ったパルマで現役を引退する。
DFファビオ·カンナバーロ (在籍期間1995~2002年) イタリア代表
Embed from Getty Images1991ー92シーズンにSSCナポリでプロデビューを飾ったカンナバーロは、ユース時代にはアルゼンチン代表のディエゴ・マラドーナと紅白戦でのプレー経験を持ち、マラドーナに対して強烈なスライディングタックルを仕掛けられるほどのメンタルの持ち主だった。
1993-94シーズンにはナポリのディフェンスラインの主軸としてプレーすることになるが、クラブの経営状況の悪化により1995-96シーズンよりパルマに移籍する。
この移籍によってGKブッフォン、DFラインには翌シーズンに加入するテュラムとセンシーニを加えた守備陣形は、この当時世界最高のDFラインと言われることになる。
パルマが経営破綻を迎えた後もカンナバーロ、ブッフォン、テュラムはユベントスでも共にプレーし、更にイタリア代表では1997年~2010年までの間カンナバーロとブッフォンは最終ラインでコンビを組んだ。
「2001年11月7日キリンチャレンジカップ」埼玉スタジアム2002にアッズーリことイタリア代表が初来日した。
世界屈指のタレント軍団と言われたアッズーリのメンバーにはカンナバーロはじめ、デルピエロやインザーギ、トッティといった豪華な陣容で来日、試合開始前のウオーミングアップの一幕で、当時パルマでチームメートだった中田とカンナバーロが談笑している姿がオーロラビジョンに映し出されると、スタジアムは大歓声に包まれる。
イケメン軍団で知られるアッズーリのメンバーの中でも、カンナバーロの甘いマスクは特に女性ファンから人気があったことでも知られている。
試合は1-1のドローで終了、余談になるがこの試合の個人的な印象として、イタリア代表の攻撃に切り替わった瞬間、2トップのデルピエロとインザーギ、「デルピッポ」のポジションチェンジを繰り返しながらDFラインの裏を目掛けた走り出しは、真に世界レベルのフリーランだったと言えるだろう。
それからもう1人、中田の異次元のフィジカルの強さとボールをキープしたときの懐の深さには鳥肌が立つほどの衝撃を受けたのを今でもはっきりと記憶している。
カンナバーロに話を戻すが国内リーグでインテル、ユベントスと渡り歩いたのちに2006-07シーズンには「銀河系軍団」レアルマドリードに移籍することになるが、この2006年というシーズンはイタリア代表がワールドカップドイツ大会で4度目の世界一に輝いたシーズンでもあり、カンナバーロは個人タイトルを総なめにする。
Embed from Getty Images- バロンドール: (2006)
- FIFA最優秀賞選手:(2006)
- ワールドサッカー世界最優秀選手賞: (2006)
- セリエA最優秀選手賞: (2006)
- セリエA最優秀イタリア人選手賞: (2006)
- セリエA最優秀ディフェンダー: (2005, 2006)
- FIFAワールドカップシルバーボール:(2006)
- FIFAワールドカップベストチーム:(2006)
- UEFAチームオブザイヤー: (2006)
- FIFproワールドイレブン: (2006, 2007)
DFリリアン·テュラム (在籍期間1996~2001)フランス代表
Embed from Getty Images1990-91シーズン母国の名門ASモナコでプロデビューを飾ったテュラムは、Jリーグの名古屋グランパスエイトでもお馴染みの指揮官アーセン・ヴェンゲルの指導を受けディフェンダーとしての才能を開花させる。
身長185センチと現代サッカーにおいては、それほど高さはないがテュラムの対人プレーの強さは、この時期からすでに多くのビッククラブから注目を集めるようになる。
1996-97シーズンにパルマに移籍することになるがGKのブッフォン、DFカンナバーロと形成した守備トリオが、のちにユベントスで再結成されたことは運命的だったとしか思えてならない。
1998-99シーズンのコッパイタリアとUEFA杯(現ヨーロッパリーグ)制覇はこの鉄壁の守備トリオなしには成し遂げることは出来なかったであろう。
テュラムのプレースタイルは身体能力の高さはもちろんのこと、技術的にも優れフィジカルコンタクトやスタミナ、対人プレーの厳しさなど、どれを取っても世界屈指のDFであったことは間違いない。
フランス代表としても98年フランス大会から3大会連続出場を果たし国際Aマッチ142試合出場、2ゴールの記録を残す。
また2005ー06シーズン現在、テュラムの息子のマルクス・テュラムとケフラン・テュラムは前者はインテル、後者はユベントスでそれぞれ主力としてプレーしている。
DFネストル・ロベルト・センシーニ (在籍期間1996~2000年) アルゼンチン代表
Embed from Getty Images1986-87シーズン母国アルゼンチンの名門ニューウェルズ・オールドボーイズでプロデビューを飾ると、2年目のシーズンには主力としてリーグ優勝を成し遂げる。
その翌年に、世界屈指のスカウト陣を誇るイタリアの中堅クラブでもあるウディネーゼ・カルチョの目に留まり、戦いの場をヨーロッパに移す。
ウディネーゼ移籍後ディフェンスの主力として4年半プレーしたのちに、当時急成長を遂げていたパルマに引き抜かれることになるが、その後ラツィオへ移籍してからパルマに出戻ったのちに、ウディネーゼにも出戻るといった数奇な経歴の持ち主でもある。
パルマでは主に3センターバックの中央でプレーし、世界屈指のディフェンスラインを統率したDFリーダーでもある。
センシーニのプレースタイルは何といってもそのユーティリティー性にあるのではないだろうか。センターバック以外にもサイドバックやボランチなど守備的なポジションならどこでもこなせる万能型。
1993-94シーズンにはUEFA杯とUEFAスーパーカップのタイトル獲得に貢献し、1998-99シーズンにもUEFA杯とコッパイタリアを獲得を経験した真にパルマの黄金時代を支えた名ディフェンダーと言えるだろう。
アルゼンチン代表としても、ワールドカップイタリア大会から3大会連続出場を果たし国際Aマッチ59試合出場の記録を残す。
MFディノ・バッジョ (在籍期間1996~2001年) イタリア代表
Embed from Getty Images1989-90シーズンに当時セリエBのトリノでプロデビューを飾ったディノ・バッジョは、トリノで2シーズンプレーしたのちにインテルで1シーズンプレーし、ユベントスへと戦いの場を移すことになる。
ユベントスでは1992-93シーズンにUEFA杯の決勝のドルトムント戦で2戦合計3ゴールの活躍をみせ、同大会のタイトル獲得に貢献したが、ビッククラブでスタメン定着とはならず徐々に出場機会を減らし1994ー95シーズンに1度はオファーを断ったパルマへの入団を決める。
当時、ロベルト・バッジョの知名度が高かったため、「もう一人のバッジョ」と呼ばれていたディノ・バッジョのプレースタイルは身長188センチの体躯を活かした空中戦の強さと、高い守備能力を兼ね備えた中盤のダイナモであり攻守の要でもある。
パルマでは6シーズンに渡りプレーすることになるが、ディノ・バッジョにとっての全盛期はこのパルマ時代に集約されていると言っていいだろう。
パルマの黄金期とも言えるこの時代は、2度のUEFA杯(現ヨーロッパリーグ)制覇に加えスーペルコッパイタリアーナ、コッパイタリアとディノ・バッジョなくしてこれらのタイトル獲得はあり得なかったはずだ。
イタリア代表としても、94年アメリカ大会と98年フランス大会の2大会に出場し国際Aマッチ59試合7ゴールの記録を残す。
MFファン・セバスティアン・ベロン (在籍期間1998~1999年) アルゼンチン代表
Embed from Getty Images1998年ワールドカップフランス大会に初出場を決めた日本代表の初戦、アルゼンチン代表のスターティングメンバーに名を連ねていたベロンだが、その風貌はまるでマフィアのボスのような印象すら与える。
スキンヘッドにピアス、そして口髭を蓄えた男がピッチ上にいるだけで、対峙するチームは無言の威圧を受け萎縮してしまうだろう。
この試合、日本代表は善戦するがアルゼンチン代表FWバティストゥータにゴールを許し0-1で敗れる、スコアこそ最小失点差だが終わってみればタレント軍団アルゼンチン代表の圧勝であろう。
ベロンが繰り出す柔らかいタッチのパス交換に翻弄されて、日本代表は中盤を支配され、中々自分たちのリズムで試合を進めることが出来ず試合終了のホイッスルを聞くことになる。
この大会でアルゼンチン代表はベスト8まで進出し、ベロンは全5試合にフル出場すると大会最多の3アシストの実績を引き下げワールドカップ終了後に、当時在籍していたセリエAのサンプドリアからパルマに移籍することになる。
1998-99シーズン大型補強を敢行していたパルマにベロンが加入すると、前線には2トップのクレスポとキエーザ、トップ下にはベロンを配置したトリデンテが形成され、ブッフォンを中心とした鉄壁の守備陣によりパルマのスカットは完成形を迎えたと言っても過言ではないだろう。
このシーズンのパルマは、コッパイタリアとUEFA杯(現ヨーロッパリーグ)の2冠を達成し、セリエAでも4位という最終順位で翌年のチャンピオンズリーグ出場権も獲得する。
翌1999-00シーズンからベロンはラツィオに移籍し、その後もマンチェスターユナイテッド、チェルシー、インテルなどビッククラブを渡り歩く。
また、アルゼンチン代表としてもワールドカップに2大会出場し国際Aマッチ71試合9ゴールの記録を残す。
FWエルナン・クレスポ (在籍期間1996-2000)アルゼンチン代表
Embed from Getty Images1993-94シーズンに母国アルゼンチンの名門リーベルプレートでプロデビューを飾ったクレスポだが、デビュー当時はスーパーサブとして活躍していた。
監督交代の影響などもあり思うような活躍が出来なかったが、1996年のアトランタ五輪で代表選出されると同大会で銀メダルを獲得する。
アトランタ五輪での活躍が認められ1996-97シーズンにパルマへの移籍を実現させ、移籍初年度から12ゴールを挙げるとパルマ在籍4年間で71ゴールの記録を残す。
クレスポのプレースタイルはストライカーとしてゴールを決める嗅覚もさることながら、スピードもあり空中戦も強く、FWとしての資質を全て兼ね備えていたと言えるだろう。
特筆すべきは味方の攻撃に切り替わった時の動き出しは、当時のイタリア代表の「デルピッポ」ことデルピエロとインザーギに勝るとも劣らないフリーラン、いわゆる「オフザボール」の動き出しはピカイチだったのではないだろうか。
アルゼンチン代表の同胞でもあるベロンが1998-99シーズンにパルマに加入すると、そのシーズンにはコッパイタリアとUEFA杯のダブルを達成し、翌1999-00シーズンには22ゴールを挙げる活躍を見せる。
パルマで4シーズン活躍後の、2000-01シーズンに66億円という移籍金でSSラツィオに移籍することになるが、この移籍金は当時セリエA最高額を更新することになる。
ラツィオ移籍初年度にはセリエAで得点王を獲得し、その後もインテル、チェルシー、ミランなどビッククラブを渡り歩き2009-10シーズンにパルマに復帰すると、3シーズンプレーしたのちに現役を引退する。
アルゼンチン代表としてワールドカップに3大会連続出場し、国際Aマッチ通算63試合35ゴールの記録を残す。
FWエンリコ・キエーザ (在籍期間1996-1999)イタリア代表
Embed from Getty Images2024-25シーズンからリバプールに所属しているイタリア代表のフェデリコ・キエーザの父親が何を隠そうエンリコ・キエーザその人である。
キエーザのプロデビューは1988-89シーズンとなるが、デビュー当時はレンタル移籍を繰り返すシーズンを送ることになるが、1994-95シーズンにレンタル先のクレモネーゼ(当時セリエAに所属)でゴールを量産し所属元のサンプドリアに復帰する。
1995-96シーズン、サンプドリアでは当時のイタリア代表でもあるロベルト・マンチーニと強力な前線を形成し、このシーズンキャリアハイの22ゴールを記録しイタリア代表にも初選出される。
この活躍を受けキエーザの元には様々なクラブからオファーが届くが、当時のパルマの指揮官でもあるカルロ・アンチェロッティ(2025年9月現在ブラジル代表監督)の強い要望もありパルマへの移籍を決める。
移籍後スタメンに定着すると初年度はセリエA29試合出場14ゴールを記録し、翌1997-98シーズンにも2桁得点を挙げる活躍を見せると、迎えた1998-99シーズンにはベロンが加入したことによりパルマの前線には強力なトリデンテが形成される。
このシーズンのUEFA杯(現ヨーロッパリーグ)では準決勝のアトレチコ・マドリードとの1stレグで2ゴール、2ndレグで1ゴールを記録し、決勝のオリンピック・マルセイユ戦でも1ゴールを決め大会通算8ゴールを挙げ、同大会の得点王に輝き優勝の立役者となる。
パルマでプレーした3シーズン通算120試合55得点を記録し、イタリア代表としても17試合出場7ゴールの記録を残す。
Embed from Getty Images余談となるが息子のフェデリコ・キエーザも前述したように2024-25シーズンからリバプールでプレーしているが思うような活躍ができていないのが現状だ。
1997年生まれのフェデリコ・キエーザは27歳にしながら国際Aマッチ44試合に出場し、セリエAでもフィオレンティーナ、ユベントスと渡り歩いてきた実績のある選手でもある。
今シーズンのフェデリコの活躍に期待しながら、来シーズン以降もリバプールで熾烈なポジション争いを継続していくのか?それとも次の移籍市場でセリエAに復帰するのか?フェデリコの動向を注意深く見守って行きたい。
現在は日本代表GK鈴木彩艶がパルマでプレー
浦和レッズの下部組織出身の鈴木がヨーロッパに渡ったのは、2023-24シーズンに浦和レッズからベルギーリーグのシント=トロイデンにレンタル加入する。
浦和レッズ在籍時のリーグ戦のプレータイムは、デビューから3シーズンで8試合の出場にとどまるが、すでに各年代の日本代表に選出されている鈴木に対しては、ヨーロッパ各国から注目されていたことは言うまでもない。
Embed from Getty Images2023-24シーズンに在籍したシント=トロイデンではリーグ戦32試合に出場し存在感をアピールすると、翌2024-25シーズンからセリエAに復帰したパルマに移籍金17億円で加入することになる。
移籍後すぐにレギュラーポジションを奪取するとチームのセリエA残留に大きく貢献し、シーズンオフには多方面から移籍の噂が持ち上がっているが、直近ではミランが正ゴールキーパーのフランス代表マイク・メニャンを放出し鈴木の獲得に乗り出すとも言われている。
2025ー26シーズンのパルマは厳しい戦いを強いられ、残留争いに巻き込まれるのは間違いないだろう。
将来的にパルマの中心選手になるであろう18歳のジョバンニ・レオーニをリバプールに売却するなど、主力選手を売却しても補強が進まなかったことはネガティブな要因であることは否めない。
Embed from Getty ImagesDFジョバンニ・レオーニは2003年のパルマラットの経営破綻以降の2006年生まれの選手である。
近年は残留争いを繰り返しているパルマだが、黄金時代にタイトル争いを演じていた時代があったことは紛れもない事実であり、その背景には大手食品メーカーのパルマラットの資本投資があったことに他ならない。
現在のマンチェスター・シティやパリ・サンジェルマンのように、大型補強を敢行し急成長を遂げられるクラブは巨額資本を後ろ盾としたオーナーに買収される以外に道はないだろう。
2025-26シーズンはパルマにとって正念場となるだろうが、サッカーはゴールを挙げないと勝てないが、逆を言えばゴールを与えなければ負けることもないスポーツである。
鈴木彩艶の孤軍奮闘する姿に期待を込めて、パルマファンでもある筆者からすれば何としてもセリエAに残留してもらいたいというのが本音であり、個人的にも今後のパルマの復活を見守りながら黄金期のようなタイトル争いを演じる日がくることを気長に待ち続けたいと思う。

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