今回はセレッソ大阪でもプレーした元ウルグアイ代表のレジェンド
ディエゴ・フォルランのサッカーキャリアを振り返っていきたいと思う。
サッカー選手ではなくテニス選手を目指していたフォルラン
フォルランは1979年ウルグアイのモンテビデオで生まれ、元サッカー選手の息子として育った。 少年時代はテニス選手を目指していたが、姉の事故をきっかけにサッカー選手になることを決意する。
18歳でアルゼンチンのクラブ、インデペンディエンテでデビューし、4年間で91試合に出場して40ゴールを決めた。
暗黒時代のプレミアリーグマンチェスターユナイテッドのフォルラン
2002年、マンチェスター・ユナイテッドに約15億円で移籍したフォルラン。当時のユナイテッドの監督はファーガソンであり、彼はフォルランの才能を見抜き、無名の彼を大金を払い獲得した。
順風満帆とはいかないのがサッカー人生である。ユナイテッド時代は彼のキャリアの中で暗黒時代といえるかもしれない。
ユナイテッドでは97試合に出場したが、17ゴールしか決められず、ユナイテッドの補強失敗リストにのってしまうが、 在籍時間は短い割には、オールド・トラッフォードで熱狂的なファンを獲得している。
ユナイテッドの監督ファーガソンは「フォルランはファン・ニステルローイの犠牲者だ」と言っている。
パートナーがいることで活きるフォルランの当時の相棒はエゴイストなストライカーだったことは不運だった。
ファン・ニステルローイは当時ユナイテッドの半分以上の得点を1人でとっており、フォルランより2歳年上だったストライカーはチームの勝利よりも自分の得点数のことだけしか頭になかった。
2003年12月にアンフィールドリバプール戦での2ゴールはファンの記憶に残るものであり、「彼はウルグアイからやって来て、リバプールファンを泣かせた」というチャントが歌われるほどフォルランはユナイテッドサポに愛されている。
スペインのビジャレアルに移籍し才能が開花
ファンニステルローイ、スールシャール、さらに若いイングランド人ストライカールーニーの加入もあり、
2004年にビジャレアルにわずか3億円で移籍したフォルラン。
ファーガソンは当時のフォルランの移籍金を安すぎたと言っていたが、年俸が高すぎたためにその金額で放出するしかなかったとも言っている。
ゴールから遠ざかっていたユナイテッド時代が嘘のようにゴールを量産し、2004-2005シーズンに25得点を決め得点王を獲得。
ビジャレアルのチームメイト元アルゼンチン代表リケルメの魔法のようなパスを受け取りストライカーとしての質の高さを証明した。
背番号はなぜかストライカーなのに5番を着用していた。
アトレティコマドリードではアルゼンチン代表のアグエロと共に得点を量産
2007-2008シーズンに3シーズン過ごしたビジャレアルからスペインの強豪アトレティコマドリードへと移籍。
このチームで2008-2009シーズンにフォルランはビジャレアル時代を上回る32ゴールを挙げ得点王を獲得。
当時のバルセロナのカメルーン代表ストライカーエトーを抑えての得点王だった。
ちなみにこのときのバルセロナは3冠を成し遂げており、そのストライカーより点を取っていたというのは、
正直、すごいとしかいいようがない。
スペイン時代はビジャレアルとアトレティコ・マドリードの7年間で154ゴールを決めている。
当時はアルゼンチン代表のアグエロも在籍しており、フォルランと共にこちらもゴールを量産していた。
リーガ・エスパニョーラではリケルメ、アグエロと同じ南米出身選手の助けもあり、最高のパートナーを得たフォルランは最高のキャリアをスペインで過ごした。
南アフリカワールドカップではフォルランが得点王
アトレティコでゴールを量産していたフォルランはウルグアイ代表でも個人タイトルを取ることになる。
2010年南アフリカワールドカップで得点王になり、世界的なストライカーの1人として認められることになる。
もしかするとフォルランがワールドカップで得点王になるとは当時誰も思っていなかったかもしれない。
「南アフリカで僕らはベスト4だった。僕はベストプレーヤーに選ばれた。でももう、そのことは考えない。唯一考えるのは、僕らが再び歴史を作り出すことができるということだけだ」
フォルランをスペイン在住記者が解説「性格に周囲は驚かされることだろう」今季セレッソ大阪に加入したディエゴ・フォルラン。W杯得点王のJリーグ参戦とあって、開幕前から盛り上がりを見せているが、改めてフォルランとはどんな人物なのか振り返ってみたい。スペイン在住記者が解説する。
フォルランのこの活躍でウルグアイは大会ベスト4という好成績を収める。
ウルグアイでは通算112試合で36ゴールをマークした。
2011年にセリエAの名門インテルへと移籍したフォルラン
アトレティコやウルグアイ代表での成功を引っさげて、イタリアのセリエAインテルへと2011年移籍したフォルラン。
当時のインテルで活躍していたストライカーエトーの後釜として考えられており、彼がチェルシーに移籍した際に得た移籍金でフォルランは加入した。
しかし選手や監督との相性が悪かったのか、セリエAではたったの2ゴールしか決められず、わずか1シーズンで退団することになる。
短い間ではあったが日本代表サイドバックの長友とインテルではチームメイトだった。
2012年にフリーの移籍金0でブラジルのインテルナシオナルに移籍する。偶然かイタリアのインテルからブラジルのインテルに加入した。
2014年セレッソ入団~そして2015年退団へ
セレッソ入団~J2に降格
2014年Jリーグ創成期以降で史上最高ともいえるフォルランがセレッソ大阪に入団する。
W杯得点王
という肩書があるビッグネームがきたというニュースは大きく報道された。
2014年といえばブラジルワールドカップが開催されており、フォルランはまだウルグアイ代表でもプレーをしていた。現役の代表がJリーグに来るのは久しぶりだったのではないだろうか。
このあと、ヴィッセル神戸にバルセロナからイニエスタが移籍するまで、話題となったのはフォルランといえる。
「育成のセレッソが、なぜビッグネームを獲得したのかと、あらゆる方から聞かれます。でも、フォルランと一緒にプレーすることもまた育成なんです。フォルランは人格者と聞いていたけど、住居などに関しても特別な要求はいっさいない。本当にこちらが拍子抜けするくらいですわ」
http://thepage.jp/detail/20140212-00000006-wordleafs?page=3&utm_expid=90592221-37.fVZ9WgkFQES3eBF2lg39IQ.0&utm_referrer=http%3A%2F%2Fthepage.jp%2Fdetail%2F20140212-00000006-wordleafs%3Fpage%3D4
育成クラブであるセレッソは柿谷や南野杉本などの生え抜きの若手にさらに成長してもらう目的で6億という大金をフォルラン獲得に使った。
これについては6億円という超高額年俸でOKサインをだしたセレッソの経営陣の勇気が素晴らしいとしかいいようがない。
しかし補強金に見合った活躍をフォルランはできず、
成長させるはずの日本代表であるセレッソのエース柿谷曜一郎はスイスのバーゼルに移籍してしまう。
シーズンを終えた成績はなんとJ2降格・・
開幕前から優勝も噂されていたチームがまさかの結果だった。
セレッソ退団
今回の契約満了に関してC大阪の玉田稔社長は、クラブとしての「体力の問題」を理由に挙げている。経営面を考えての判断で、「現状の条件では難しい」とした。
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結局今シーズンもセレッソ側が年俸を支払う経営力がないということで、
半年の契約が満了となり退団することになった。
なぜ「こんなはずじゃなかった・・」という結果になったかについては、
おそらくフォルランを使いこなせる監督がいなかったもしくは人選ミスだったということだろう。
両腕いっぱいの花とプレゼントを抱えて最後のゴールをPKを決めたフォルランがメインスタンドに戻ってきて報道陣の取材に答えていく。
ひととおりの質問に回答し、「サンキュー」と言って帰ろうとする彼を「一つだけ」と呼び止めて、ずっと聞きたかった質問を投げ掛けた。
「セレッソ大阪でプレーした1年半で一番思い出に残っていることは?」
「トルシーダ」
まさに即答だった。ポルトガル語で「サポーター」を意味する単語を笑顔で口にして、彼はこう続けた。
「一番すごかったのは、私のことを応援してくれたサポーターだ。彼らの声援は本当に素晴らしい。また日本に帰ってきたいと思っている。できたら監督としてね」
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セレッソ退団後はウルグアイ、インド、香港のクラブでプレー
フォルランはセレッソ大阪を退団後、ウルグアイのCAペニャロール、2016年にムンバイ・シティFCに移籍、
2018年には香港の傑志へと移籍した。
2019年40歳で現役を引退し、2022年に40歳以上がプレーするシニアチームオールド・ボーイズ&オールド・ガールズ・クラブで現役復帰を果たした。
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