レアルマドリードを本気にさせた男!鹿島アントラーズ柴崎岳のすごかった学生時代をまとめてみた!

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日本代表でもプレーし、長年7番を背負ってきた遠藤保仁選手の後継者としても

呼び声の高い柴崎岳選手。

所属の鹿島アントラーズでは司令塔としてピッチの中央から

正確なパスで攻撃をコントロールする。

攻守にわたって豊富な運動量が持ち味な柴崎選手は、

昨年12月に行われたFIFAクラブワールドカップ決勝で

スペイン リーガ・エスパニョーラで首位を走る

強豪レアル・マドリードから2点を奪い、世界に衝撃を与えた。

 

インサイドキックやインステップ、トラップなどの基礎技術を二人の兄から教わる

柴崎選手には二人の兄がいる。

「兄が2人ともサッカーをしていて、父も母もサッカーを見るのが好きだった。

気付けば自分も自然とボールを蹴っていました。

小さいころは兄とボールを蹴ったり、一人で壁当てをしたり。

小学1年生くらいからスポーツ少年団に入りました。」

人並み外れた努力はこの頃の兄との練習で培われていた。

小学生の時は基本技術を身に着けるための練習を多くやっていました。

一番上の兄とは9歳も離れているので、まともにやっても勝てなかった。

だからインサイドキックやインステップキック、

トラップなど、基本的な技術を教えてもらいました」。

一番上の兄との練習の成果を試すのは二番目の兄だった。

「3歳違いなので1対1や対人プレーなど、実践的な練習をしていた覚えがあります」

柴崎選手は二人の兄とサッカーに明け暮れる生活を送っていた。

その努力が小学6年生のころには県大会で優勝に導くなどみるみる頭角を現していった。

 

青森山田中学高等学校へ進学。プラチナ世代としてU-17ワールドカップでは代表の10番を背負う

「とにかくプロサッカー選手になりたかった。」

当時を振り返ると最高の選択だったという。

その選択が、全国大会の常連校であり、中学の部では全国中学校サッカー大会で3連覇中、

高校の部では今年の第95回全国高校サッカー選手権大会で見事初優勝に輝いた名門

「青森山田」への進学である。

柴崎選手は中高一貫校である青森山田に進学し、

中学生のころから寮生活を送るという選択をしていた。

「親には最初、反対されましたが、頼み込んで青森山田に行かせてもらった。

息子の判断を尊重してくれたことに感謝しています」

その気持ちを胸に今まで以上にサッカーに打ち込める環境を手に入れ、

それを最大限に利用していった。

中学生の頃には、柴崎選手のスタイルである「ゲームメイク」という形を確立し、

チームのエンジンとしてさらに成長を続けていく。

また、1992年生まれの選手はプラチナ世代と呼ばれ、

2009年11月に開催されたU-17ワールドカップ(17才以下のワールドカップ)では

プラチナ世代の中心として日の丸の10番を背負い、

宇佐美や宮市といった2020年ロシアワールドカップでは

間違いなく主力として戦うであろう選手ともに経験を積んでいく。

 

世間ではクールなイメージだが実際は熱いハートの持ち主。今冬の移籍市場でスペイン行きが噂されている

常に冷静沈着なプレーとインタビューにも淡々と答える姿から世間には

クールなイメージがあるだろう。

しかしそのイメージとは正反対で「負けたくない一心でやっていた」

という気持ちは小学生の頃から変わっていない。

青森県は日本でも有数の豪雪地帯。

しかし、青森山田高校サッカー部は屋内ではなく、あえて外での練習を続けている。

雪があるから他県の高校より不利になると言い訳を述べるのではなく、

雪があるからシーズンオフの冬の間に足腰が鍛えられ、

春になる頃には去年とは別の自分に生まれ変われる。

雪を反対に味方につけているのである。

当時のチームメイトからおもしろい話を聞いた。

ある日の練習。

いつも通り1メートル以上積る雪の中、

柴崎選手が練習をしていると相手選手からタックルを受けた。

それに柴崎選手は激怒したがコーチが止めに入り事は収まった。

練習が終わると他の選手は皆、疲労感で雪上に倒れこむ。

しかし柴崎選手は、練習中に怒ってしまった選手のもとへ向かい

さっきは悪かった。」そう言い残し、誰も足を踏み入れていない隣の野球場に向かい、

雪の中ポール間ダッシュ(レフトポールとライトポールの間)を始めた。

チームメイトに激怒してしまった自分への戒めなのか、

彼は限界まで自分を追い込んでいたと当時のチームメイトは明かす

今回の移籍市場では間違いなく目玉になるであろう日本の司令塔に今後も期待したい。

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