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【決定版】イタリアセリエAでプレーした歴代日本人選手を時代順×活躍度で徹底解説

コラムまとめ
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この記事を書いたライター
トムマージ

元サッカー経験者のヨーロッパサッカー好きライター。
サッカー経験15年。かなりガチでやってました。
現在は観戦専門です。特にヨーロッパサッカーが好きで、中でもイタリアセリエAの大ファンで観戦経験もあり。
好きなクラブ:ラツィオ、パルマ、インテルなど。
得意な執筆内容/移籍情報/クラブ黄金期メンバー/歴代ベストイレブン/選手紹介/代表戦も大好物。エッセイ風の記事にも挑戦してみたい。
ライター常時募集中!

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  1. イタリアが誇る世界最高峰リーグ、セリエAとは
  2. セリエAのリーグ構成
  3. 優勝の証「スクデット」
  4. 歴代優勝クラブの顔ぶれ
  5. 「ビッグ7」が存在した黄金期
  6. 戦術レベル世界最高峰のリーグ
  7. 日本人選手とセリエAブーム
  8. セリエAからブンデスリーガへ
  9. 史上最も過酷なリーグへの挑戦
  10. 活躍度評価基準
    1. イタリア・セリエA 歴代日本人選手一覧(1994-2025)
  11. セリエA日本人プレーヤー1人目 三浦知良 FW ジェノア 在籍期間 1994~1995
    1. 三浦知良~日本サッカー界のパイオニア~
  12. セリエA日本人プレーヤー2人目 中田英寿 MF ペルージャ~フィオレンティーナ 在籍期間 1998~2006
    1. 中田英寿~孤高のファンタシスジスタ~
  13. セリエA日本人プレーヤー3人目 名波浩 MF ベネチア 在籍期間 1999~2000
    1. 名波浩~日本のミスターレフティー~
  14. セリエA日本人プレーヤー4人目 中村俊輔 MFレッジーナ 在籍期間 2002~2005
    1. 中村俊輔~世界トップクラスのプレースキッカー~
  15. セリエA日本人プレーヤー5人目  柳沢敦 FW サンプドリア/メッシーナ 在籍期間 2003~2006
    1. 柳沢敦~イタリア代表からゴールを決めた天才ストライカー~
  16. セリエA日本人プレーヤー6人目 小笠原満男 MF メッシーナ 在籍期間 2006~2007
    1. 小笠原満男~ミスターアントラーズ~
  17. セリエA日本人プレーヤー7人目 大黒将司 FW トリノ 在籍期間 2006~2007
    1. 大黒将司~スーパーサブの象徴~
  18. セリエA日本人プレーヤー8人目 森本貴幸 FW カターニャ/ノバーラ 在籍期間 2006~2013
    1. 森本貴幸「和製ロナウド」~日本の爆撃機~
  19. セリエA日本人プレーヤー9人目 長友佑都 DF チェゼーナ/インテル 在籍期間 2010~2018
    1. 長友佑都 「鉄人」~おじぎパフォーマンスでチームに溶け込む~
  20. セリエA日本人プレーヤー10人目 本田圭佑 MF/FW ミラン 在籍期間 2014~2017
    1. 本田圭佑~背番号10を自ら要求したビッグマウス~
  21. セリエA日本人プレーヤー11人目 冨安健洋 DF ボローニャ 在籍期間 2019~2021
    1. 冨安健洋「規律」「冷静さ」「勇敢さ」を兼ね備えた~侍ディフェンダー~
  22. セリエA日本人プレーヤー12人目 吉田麻也 DF サンプドリア 在籍期間 2020~2022
    1. 吉田麻也~日本の守備リーダーキャプテン吉田~
  23. セリエA日本人プレーヤー13人目 鎌田大地 MF ラツィオ 在籍期間 2023~2024
    1. 鎌田大地 ~『EL男』フランクフルト時代にはヨーロッパリーグ制覇~
  24. セリエA日本人プレーヤー14人目 鈴木彩艶 GK パルマ 在籍期間 2024~現在
    1. 鈴木彩艶~日本代表の新守護神~

イタリアが誇る世界最高峰リーグ、セリエAとは

1990年代、世界最強リーグと謳われ、世界中からスター選手が集結していたのが、イタリア1部リーグ・セリエAである。
その歴史は古く、創設は1898年にまでさかのぼる。

現在、セリエAはイングランドのプレミアリーグ、スペインのラ・リーガ、ドイツのブンデスリーガ、フランスのリーグ・アンと並び、世界5大リーグの一角を担っている。


セリエAのリーグ構成

イタリアのプロサッカーリーグは、以下のカテゴリーに分類されている。

  • セリエA(1部):20チーム
  • セリエB(2部):20チーム
  • セリエC(3部):60チーム(3グループ制)

ピラミッド構造が明確で、昇格・降格の争いも激しく、シーズンを通して緊張感のある戦いが繰り広げられている。


優勝の証「スクデット」

セリエAでリーグ優勝を果たすことは「スクデット」と呼ばれる。

スクデットとはイタリア語で「小さな盾」を意味し、優勝クラブは翌シーズンのユニフォーム胸部に、チャンピオンの証としてワッペンを装着する。

セリエA創設時の初代優勝クラブはジェノアFC。
歴代優勝回数では、ユベントスが36回で最多を誇り、インテル(20回)、ACミラン(19回)がそれに続いている。


歴代優勝クラブの顔ぶれ

以下はセリエA歴代優勝回数順に表にしてみたので参考にしてほしい。

歴代優勝回数順位クラブ名優勝回数
1位ユベントス36回
2位インテル20回
3位ACミラン19回
4位ジェノア9回
5位トリノ7回
5位ボローニャ7回
7位FCプロ・ヴェルチェッリ18927回
8位ナポリ4回
9位ASローマ3回
10位ラツィオ2回
10位フィオレンティーナ2回
12位カリアリ1回
12位エラス・ベローナ1回
12位サンプドリア1回
12位ASカザーレ・カルチョ / USDノヴェーゼ各1回

これまでのセリエAでは、ジェノア(9回)、トリノとボローニャ(各7回)、ナポリ(4回)、ASローマ(3回)、ラツィオとフィオレンティーナ(各2回)など、数多くのクラブがスクデットを獲得してきた。

※現在セリエA・セリエBに所属していないクラブも含まれる。


「ビッグ7」が存在した黄金期

1990年代初頭から2000年代初頭にかけてのセリエAには、「ビッグ7」あるいは「7シスターズ」と呼ばれた強豪クラブ群が存在した。

当時のセリエAは、現在のプレミアリーグにおけるビッグ6をも上回る資金力と戦力を誇り、世界最高峰リーグとしての地位を確立していた。


戦術レベル世界最高峰のリーグ

セリエAは「カテナチオ」に代表される守備的なリーグという印象を持たれがちだが、実際には戦術理解度と試合運びの厳しさにおいて、ヨーロッパでも屈指のレベルを誇る。

わずかな判断ミスが即失点につながる環境であり、選手には高い戦術眼と集中力が求められる。


日本人選手とセリエAブーム

日本においてセリエAが最も注目を集めたのは、1990年代から2006年頃にかけてである。

当時はフジテレビで「セリエAダイジェスト」が放送されるなど、その人気は非常に高かったことを若い方は知らないだろう。

日本人選手として初めてセリエAに挑戦したのは三浦知良。その後、多くの侍日本人選手がイタリアへ渡り、一時代を築いた。


セリエAからブンデスリーガへ

2006年以降、日本人選手のセリエA移籍は徐々に減少していく。

2010年代に入ると、香川真司をはじめとする選手たちがドイツ・ブンデスリーガへ移籍する流れが加速していった。


史上最も過酷なリーグへの挑戦

世界中のスターが集い、ワールドクラスの実力が求められた黄金期のセリエAは、史上最も過酷なリーグのひとつといえる。

そんな環境に挑んだ日本人選手たちは、まさに勇敢な存在だった。

本記事では、セリエAに挑戦した日本代表選手たちを時代順に紹介しつつ、筆者トムの独断と偏見で【活躍度】を5段階評価し、各紹介選手について徹底解説していく。


活躍度評価基準

  • Sランク(Super)
     試合を決定づける神がかった活躍
  • Aランク(Excellent)
     目立った好パフォーマンスでチームを牽引
  • Bランク(Good)
     安定したプレーで及第点以上
  • Cランク(Average / Below Average)
     やや物足りない内容
  • Dランク(Poor)
     不調が目立ち、戦術にフィットしなかった

イタリア・セリエA 歴代日本人選手一覧(1994-2025)

選手名所属クラブ在籍期間出場試合数/得点数活躍度評価
三浦知良ジェノア1994-199521試合 / 1得点C
中田英寿ペルージャ、ローマ、パルマ 他1998-2006182試合 / 24得点S
名波浩ベネチア1999-200024試合 / 1得点C
中村俊輔レッジーナ2002-200581試合 / 11得点B
柳沢敦サンプドリア、メッシーナ2003-200644試合 / 2得点D
小笠原満男メッシーナ2006-20076試合 / 1得点D
大黒将司トリノ2006-200710試合 / 0得点D
森本貴幸カターニャ、ノヴァーラ2006-2013109試合 / 19得点B
長友佑都チェゼーナ、インテル2010-2018186試合 / 9得点S
本田圭佑ACミラン2014-201781試合 / 9得点C
冨安健洋ボローニャ2019-202161試合 / 3得点A
吉田麻也サンプドリア2020-202272試合 / 3得点A
鎌田大地ラツィオ2023-202429試合 / 2得点C
鈴木彩艶パルマ2024-現在37試合 / 0得点※A
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名波、中田、中村、本田、鎌田と各年代の日本人スターMFがたくさんプレーしているな

セリエA日本人プレーヤー1人目 三浦知良 FW ジェノア 在籍期間 1994~1995

生年月日 1967年2月26日 身長177センチ 体重 72㎏

セリエA通算21試合出場1ゴール  【活躍度Cランク】

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三浦知良~日本サッカー界のパイオニア~

プロ生活40周年を迎える「キングカズ」こと三浦知良(58)は、2026年現在横浜FCから期限付き移籍でJ3福島ユナイテッドFCに所属している。

静岡の高校サッカーの超名門でもある静岡学園を中退したのち15歳で単身ブラジルに渡る。

ブラジルでプロ契約したカズは、現ブラジル代表でもあるネイマールが所属しているサントスFCで活躍したのち、Jリーグ開幕と共に日本に帰国すると、ヴェルディ川崎に加入。

1993年、日本のプロリーグでもあるJリーグが発足すると、ヴェルディ川崎では初代年間チャンピオンに輝くと共に、日本年間最優秀賞に続きアジア最優秀賞選手など数々の個人タイトルも獲得。

ヴェルディ川崎のオーナーでもある渡辺恒雄は、海外移籍の噂が絶えないカズの移籍に難色を示していたといわれるが、1994-95シーズン紆余曲折を経てジェノアFCへの移籍が実現。

この当時のセリエAは「世界最強リーグ」と謳われ、日本人がセリエAに移籍すること事態、地球人が火星に行くほどの衝撃を与えたと言っても過言ではない。

1994-95シーズン9月4日セリエA開幕戦でACミランと対戦。

ジェノアのホームスタジアムでもあるルイジ・フェラーリスで、カズはアジア人として初めてセリエAのピッチに立つ。

スタメンに名を連ねたカズは、前半途中にミランのイタリア代表DFでもあるフランコ・バレージと接触しセリエAの洗礼を受けてしまう。

鼻骨骨折に加え、眼窩系神経を損傷するという大怪我を負ってしまい、いきなり一ヶ月の戦線離脱を強いられる。

厳しい船出となったカズのイタリア挑戦は、それまでに日本人が浴びたことのないパッシングや批判を受けたことは間違いないと言える。

シーズン途中に度重なる監督交代によってスタメンから外され、代表戦で日本に帰国すれば、監督から口も利いてもらえないほど冷遇されてしまう。

イタリア人からすれば、助っ人で来た日本人が生意気にも、代表戦のために帰国するとはなんぞやと言った感覚だろうか。

それでも迎えたセリエA第12節サンプドリアとのジェノバダービーで、チェコスロバキア代表のスクラビーが頭で落としたボールを押し込み待望のセリエA初ゴールが生まれる。

カズがセリエAで挙げたゴールは、この試合で挙げた1ゴールのみとなるが、シュートを放ってもゴールバーに嫌われ、ゴールネットを揺らしてもオフサイドというシーンを何度も演出した。

少ない出場時間で、あと一歩のところまでゴールに迫っていたことは間違いない。

カズのイタリア挑戦は、成功を収めたとは言えないが、これまでイタリア人がもっていた日本人選手に対しての概念をくつがえし、後の日本人選手たちのセリエAへの道を切り開いたと言えるだろう。

カズの場合ワールドカップに出場するためにジェノアに移籍をしたのだが、彼がその後ワールドカップに日本代表として出場することはなかった。

セリエA日本人プレーヤー2人目 中田英寿 MF ペルージャ~フィオレンティーナ 在籍期間 1998~2006

生年月日 1977年1月22日 身長175センチ 体重 72㎏

  • ペルージャ  48試合出場12ゴール
  • ローマ    30試合出場5ゴール
  • パルマ    67試合出場5ゴール
  • ボローニャ  17試合出場2ゴール
  • フィオレンティーナ 20試合出場0ゴール

セリエA通算182試合出場24ゴール(カップ戦含まず) 【活躍度Sランク

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中田英寿~孤高のファンタシスジスタ~

1998-99シーズン、ワールドカップフランス大会を戦った中田はセリエA昇格組のペルージャに移籍する。

デビュー戦となった開幕のユベントス戦では、いきなり2ゴールを挙げる活躍で鮮烈なデビューを飾る。

当時のユベントスには、フランス代表のジダンをはじめデルピエロやインザーギ、ダービッツといったスター選手がスタメンに名を連ねる。

日本からイタリアに渡り、いきなりテレビやゲームの中に出てくる名だたるスター選手を前にしても、全く怯むことなく立ち向かった中田。

ユベントスのオランダ代表エドガー・ダービッツは試合後、中田に歩み寄り「お前は本当に日本人か?」と声を掛けユニフォーム交換を志願したほどだ。

イタリアでも辛口評価で有名な最大スポーツ紙「ガゼッタ・デロ・スポルト」は敗者でもある中田に異例の8.0という高評価を与えている。

採点(ガゼッタ名物の10点満点評価)※ イタリア紙では通常、初出場選手は5〜6点が一般的

中田はこのシーズン33試合に出場10ゴールの活躍を見せ、チームのセリエA残留に大きく貢献する。

1999ー00シーズン途中、ここまでの活躍もあり多くのビッククラブの標的となった中田は、移籍金+ロシア代表のアレニチェフの譲渡という条件でASローマに移籍。

移籍当初はボランチで起用されることが多く、トッティが欠場した試合は、本来のポジションであるトップ下で出場していた。

EU圏外選手(非ヨーロッパ国籍)には外国籍選手の登録制限があり、1チームあたり3人〜5人までとなっている。(時期により変動)

トッティとのポジション争いや、外国人枠の問題もあり中田は徐々に出場機会を減らし、ベンチを温める日が続く。

限られた出場タイムの中、迎えた2000-01シーズン天王山でもある第29節ユベントス戦で0-2からのビハインドの中、ゴールも決め2ゴールに絡む活躍でドローに持ち込む。

この試合の中田の奮闘もあり、ローマは18年ぶりにセリエAで優勝を手にするとともに、中田自身も初タイトル獲得と日本人として初のセリエA優勝メンバーとなる。

翌2001-02シーズン、ローマでベンチを温める機会が多かった中田に対して、パルマがなんと約32億円という移籍金を提示し中田の獲得に踏み切る。

出場機会が限られていた選手に対して、これほどの移籍金を払ってまで獲得を熱望された中田は、当時間違いなく世界でもトッププレーヤーであったと言えるだろう。

パルマ移籍当初、トップ下というポジションを与えられた中田だが、中々チームにフィット出来ず本来のパフォーマンスとは程遠く、序盤戦は低空飛行を続ける。

度重なる監督交代を繰り返したのち、2002-03シーズンに就任したチェーザレ・プランデッリ監督は中田を3トップの右サイドで起用。

ブラジル代表のアドリアーノに加え、ルーマニア代表のアドリアン・ムトゥと形成した3トップは「トリアイナ」三叉の槍と評されセリエA屈指の攻撃力を発揮した。

勢いに乗ったパルマは、このシーズンに1998-99シーズン以来となる、コッパイタリアのタイトルを獲得する。

しかし、プランデッリ監督は中田に対し右サイドに開いた位置でのプレーを要求すると、次第に右サイドの攻撃的なポジションから、サイドで守備偏重のバランサー役に徹する。

3トップの一角でありながら、右サイドに張り付いて守備的なプレーを要求すること自体、全く意味不明である。

2003ー04シーズンの冬のマーケットで中田は、ペルージャ時代の恩師でもあるマッツオーネ監督率いるボローニャへレンタル移籍を決断。

ボローニャで迎えた初戦、右サイドから鋭いボールを中央に送るとFWイグリ・ターレが頭で合わせ、いきなりゴールを演出。

マッツオーネ監督から与えられたセンターハーフでプレーすることにより、中田は本来のプレースタイルを取り戻しボローニャの残留に大きく貢献。

恩師マッツオーネは中田の残留を望んだが、レンタル元のパルマが財政難により破産するとボローニャ側も中田の年俸を工面できず、2004-05シーズン開幕はフィオレンティーナで迎える。

当時のフィオレンティーナは、2003-04シーズンにセリエBから昇格したばかりで、再び名門復活を目指していた時期でもある。

クラブにとって中田は、豊富な経験や戦術理解度もあり、経験をチームに還元する役割を求められての移籍だった。

しかし蓋を開けてみると、この当時中田はグロインペイン症候群という足の付け根の慢性的な痛みに悩まされ低調なプレーに終始してしまう。

フィオレンティーナは中田にとってセリエAで所属した最後のクラブとなる。

20試合に出場しノーゴールという結果に終わり、パルマ時代に冷遇されたプランデッリ監督の就任が決まると、イタリアの地を離れイングランドへと戦いの場を移す。

しかし、中田がイタリアの地で刻んだ実績は日本サッカー界に、後進に続くであろう日本人選手に多大な影響とインパクトをもたらしたことは間違いない。

当時、世界最強リーグと謳われたイタリアセリエAでビッククラブ移籍を果たし、世界中の名だたるスター選手とチームメートになり優勝を経験した選手は他にない。

引退後はサッカーから距離を置いている中田ではあるが、アラブ首長国連邦のドバイで2025年12月に開催されたグローブ・サッカー・アワードでは選手キャリア賞を受賞した。

偉大な功績を残した彼をサッカー界は放ってはおかないということだろう。

これほどの実績を残した中田には、活躍度はSランクで申し分ないだろう。

セリエA日本人プレーヤー3人目 名波浩 MF ベネチア 在籍期間 1999~2000

生年月日 1972年11月28日 身長177センチ 体重 70㎏

セリエA通算24試合出場1ゴール 【活躍度Cランク

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名波浩~日本のミスターレフティー~

現在、森保ジャパンを支える日本代表のコーチでもある「ミスターレフティー」こと名波浩はセリエAでプレーした3人目の日本人選手でもある。

現役時代は、日本代表とジュビロ磐田で長きにわたり中心選手としてプレーしていた選手だ。

代表ではボランチでありながら10番を着用し、ゴールに繋がる長短自在なパスを繰り出すゲームメーカーとして活躍し、国際Aマッチ67試合出場9ゴールの実績を誇る。

ジュビロ磐田時代には、「ジュビロ黄金期の司令塔」として、1990年代後半〜2000年代初頭にクラブを牽引し数々のタイトル獲得に貢献。

日本代表とジュビロ磐田での活躍が認められた名波は、1999-00シーズンに当時セリエAのACベネチアへのレンタル移籍が実現する。

1998-99シーズンにウルグアイ代表のアルバロ・レコバがインテルに移籍したため、レコバと同じ左利きである名波に白羽の矢が立ったとも言われている。

名波がイタリアに渡る前年には中田英寿がペルージャに移籍し、鮮烈なデビューを飾り、終わってみれば10ゴールを挙げる活躍を見せ大きな話題となった。

前年の中田の活躍もあり、名波の加入にも大きな期待が寄せられたことは言うまでもない。

セリエA開幕のウディネーゼ戦、名波は途中出場ながら史上3人目のセリエA日本人プレーヤーとしてピッチに立つと、いきなりアシストを記録し存在感を示す。

名波にとってのセリエA開幕戦は、技術と戦術のギャップを痛感した“挑戦の始まり”でありセリエAの厳しさを知ることになる。

迎えたセリエA第10節のペルージャ戦では、史上初めてセリエAの舞台で日本人対決が実現し、日本国内でも大きな注目を浴びる。

名波、中田共にスタメンに名を連ねトップ下で出場し、2人のマッチアップも中盤で何度か実現する。

中田はペルージャ2年目で攻撃の中心として、得意のスルーパスとミドルシュートを放つなど輝きを放っていた。

しかし、名波はセリエAのテンポと戦術に苦戦しながら、ペルージャのプレスにも苦しめられ後半途中で交代しチームも敗戦。

両者の評価も明暗を分ける事になり、イタリア最大スポーツ紙の『ガゼッタ・デロ・スポルト』の採点も中田の6.5点(チーム平均より高評価)に対し名波は5.5点(やや厳しい評価)。

セリエAのテンポに中々馴染めず、最終的にシーズンを通じて24試合に出場に留まる。

フル出場は少なく、ベンチ入りしても出場機会の無い試合や、僅かな出場時間しか得られない試合もあった。

リーグ戦は16位に終わりチームはセリエBに降格し、降格が決まれば退団する契約の為、わずか1年での帰国となる。

日本代表とジュビロ磐田では中心選手として活躍した名波だが、セリエAでは降格争いを演じているチームの中にあっても、わずかな出場時間しか得られないというのは皮肉なものである。

左足の技術はあっても、スピードやフィジカルの強さがなければセリエAの舞台で成功出来ない事を、如実に物語った移籍失敗例と言えるだろう。

名波はインタビューで「技術は通用すると思ったけど、試合のテンポと守備の速さが全然違った。日本とは“サッカーの質”そのものが違った。」とコメントを残している。

セリエA日本人プレーヤー4人目 中村俊輔 MFレッジーナ 在籍期間 2002~2005

生年月日 1978年6月24日 身長178センチ 体重 71㎏

セリエA通算81試合出場11ゴール【活躍度Bランク

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中村俊輔~世界トップクラスのプレースキッカー~

1997年にプロデビューを飾った中村は、横浜Fマリノスで数々の個人タイトルを獲得し頭角を現すと、2002ー03シーズンにイタリアに渡ることになる。

2002年と言えばワールドカップ日韓大会が開催されたシーズンでもあるが、中村は足首のケガが長引いた影響もあり代表に呼ばれることはなかった。

しかし、中村の足元の技術とプレースキッカーとしての能力はヨーロッパでも高く評価されており、セリエAのレッジーナに背番号10番として迎え入れられる。

移籍初年度からプレースキッカーを任された中村は、スタメンに定着しこのシーズン、リーグ戦32試合に出場し7ゴールを記録する。

セリエAという世界屈指の守備重視のリーグで、「10番」として評価された日本人は極めて稀と言えるだろう。

中村俊輔の左足は、ただの技術ではなく“試合を決める魔法”でもあった。

レッジーナでの躍動はその証明であり、2002-03シーズンで挙げた7ゴールは全てフリーキックとPKによる得点だった。

中村のFK → ゴール → 勝ち点確保が定番化し中村俊輔の“世界トップクラスのプレースキッカー”としての地位は、この3年間で確固たるものになったと言えるだろう。

芸術性と実効性が両立した3年間を送り、世界的フリーキック評価の確立やフィジカル・守備力を鍛え上げたターニングポイントとなった時代でもある。

このレッジーナ時代を抜きに、後にセルティックに移籍し絶頂期を迎えた事や代表での司令塔像は語れない。

セルティック移籍後にチャンピオンズリーグのマンチェスターユナイテッド戦で決めたフリーキックは今もなお伝説として語り継がれている。

また日本代表としては98試合出場24ゴールを記録している一方で、Jリーグでは 歴代最多24本の直接FKによるゴール を挙げている。

セリエA日本人プレーヤー5人目  柳沢敦 FW サンプドリア/メッシーナ 在籍期間 2003~2006

生年月日 1977年5月27日 身長177センチ 体重 75㎏

  • サンプドリア 15試合出場0ゴール
  • メッシーナ  29試合出場2ゴール

セリエA通算44試合出場2ゴール【活躍度Dランク

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柳沢敦~イタリア代表からゴールを決めた天才ストライカー~

2001年11月7日、アッズーリことイタリア代表が初来日した親善試合で、衝撃的なゴールを決めた柳沢はアッズーリのメンバーに鮮烈な印象を与える。

試合は1-1のドローに終わるが、試合後のインタビューでイタリア代表選手に印象的だった選手はという質問が飛ぶと、こぞって13番の選手と柳沢の名を挙げていたのだ。

この試合のゴールがあり、イタリア国内のクラブが関心を示したのは言うまでもなく、この時に限って言えば柳沢を天才ストライカーとして世界は認識していただろう。

柳沢はこの試合の2年後にイタリアに渡ることになるが、Jリーグでは鹿島アントラーズでデビューを飾ると瞬く間に中心選手へと成長を遂げる。

デビュー後ゴールを量産し新人王に輝くと、1998年シーズンには22ゴールを挙げ名実ともに鹿島のエースへと躍り出る。

2001年には鹿島のJリーグ優勝に貢献し、リーグベストイレブンに選出されると、2002年日韓ワールドカップでも日本代表としてチームの16強進出へ大きく貢献。

迎えた2003-04シーズンに、セリエAの古豪でもあるサンプドリアからオファーを受け大きな期待を背負ってイタリアに渡る。

日本では鹿島のパスサッカーで輝いた柳沢だが、セリエAではフィジカルと守備戦術の壁に直面することになる。

イタリアでは、FWにも守備やポストプレーの強さが求められ、柳沢は連携面で高評価を受ける一方、ゴール前での決定力不足を指摘された。

現地メディアの評価は「技術はあるが、ゴール前での強さが足りない」「柳沢は勤勉な選手だがイタリアの守備を崩すには時間が必要」と辛辣な評価を下される。

Jリーグでは輝きを放っていた柳沢だが、サンプドリアでは特に目立った活躍もなく出場時間も限られ、なんと15試合出場0ゴールという結果に終わる。

翌2004-05シーズンに出場機会を求めてメッシーナに移籍することになる。

メッシーナでも安定したプレータイムが得られたとは言い難いが、セリエA第24節リボルノ戦で待望のセリエA初ゴールが生まれる。

前半右サイドからの攻撃から、味方が挙げたクロスを相手GKがはじくと、柳沢が素早く反応し右足で冷静に押し込んだゴールだった。

第29節のパルマ戦でもゴールを挙げるが、柳沢がセリエAで記録したゴールは結局この2ゴールに終わってしまう。

3シーズンに渡りイタリアでプレーした柳沢だが、FWとして2ゴールという結果は、物足りなさを感じずには居られない。

柳沢はイタリアからの帰国後、セリエA挑戦について「結果を出せなかった」と率直に認めつつも、「しかし無駄な経験ではなかった」とコメントしている。

厳しい競争と、高い戦術理解を求められる環境で得た学びは、その後のJリーグでのプレーに確実に活かされている。

セリエA日本人プレーヤー6人目 小笠原満男 MF メッシーナ 在籍期間 2006~2007

生年月日 1979年4月5日 身長173センチ 体重 72㎏

セリエA通算6試合出場1ゴール 【活躍度Dランク

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小笠原満男~ミスターアントラーズ~

鹿島の黄金時代を支えたレジェンドでもある小笠原は、1998年に鹿島に入団するとイタリアに移籍した1シーズンを除けば19シーズンに渡り鹿島で中心選手としてプレーしたミスターアントラーズである。

レギュラーに定着した2000年シーズンにはJリーグ、天皇杯、ナビスコ杯とJリーグ創設以来初の3冠達成の立て役者となる。

日本代表としても2002年にデビューを飾ると、22歳という若さでワールドカップ日韓大会にも選出されることになる。

小笠原のプレースタイルは身長173センチと小柄でありながら、フィジカルコンタクトに強く激しいプレスを跳ね除けるボールキープ力もさることながら、ボール奪取能力に優れている。

日本ではトップレベルの司令塔として知られ、「中盤の王様」「静かなるリーダー」と称されていた彼に、イタリアから関心が寄せられる。

2005年シーズンにはセリエAのレッチェからのオファーを受け移籍を志願したが、優勝争いをしているチームの大黒柱でもある小笠原の放出に鹿島幹部は難色を示す。

しかし、迎えた2006シーズンに柳沢が在籍していたセリエAのメッシーナからオファーを受けると、柳沢と入れ替わる形でメッシーナへの移籍が決まる。

メッシーナは当時、セリエA残留争いの真っ最中であり、守備を固める戦術が多く、小笠原の長所であるゲームメイクや緩急のあるパスが発揮しづらかった。

さらにイタリア語でのコミュニケーションや、チーム内の序列も低く出場機会にも恵まれず鹿島の黄金時代の立役者となった小笠原でさえ6試合の出場に留まってしまう。

イタリア王手スポーツ紙はこぞって小笠原に対し厳しい評価と課題を指摘する。

「テクニックはあるが、イタリアのテンポに適応できていない。」「判断力と戦術理解は高い。だが守備面での貢献が足りない。」

イタリアでの苦い経験は、彼のサッカー観を大きく変えたことは間違いないだろう。

小笠原は帰国後のコメントで「練習や試合のテンポが違いすぎた。自分のプレーを出す余裕がなかった。」と語っている。

また、当時の日本代表監督でもあるジーコは「イタリアで学んだ経験が、満男をより完成された選手にした。」とコメントしている。

セリエA日本人プレーヤー7人目 大黒将司 FW トリノ 在籍期間 2006~2007

生年月日 1980年5月4日 身長178センチ 体重 73㎏

セリエA通算10試合出場0ゴール 【活躍度Dランク

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大黒将司~スーパーサブの象徴~

2000年代初頭のJリーグで、「点取り屋」として名を馳せた大黒将司は、1999年にガンバ大阪のトップチーム昇格後徐々に頭角を表わすことになる。

2001年には試合経験を積む為に、自ら志願してコンサドーレ札幌に1年間の武者修行に出る。

レンタルからガンバ大阪に復帰した大黒は、このシーズンついに覚醒の時を迎えJリーグの得点ランキングで2位に食い込むとベストイレブンにも選出される。

主力として定着すると、2005年にはリーグ戦16ゴールを記録し、ガンバ大阪初のリーグ制覇に大きく貢献する。

この活躍が認められ、当時の日本代表監督でもあるジーコの目に留まり、日本代表に初選出されW杯アジア最終予選に挑むことになる。

大黒が一躍脚光を浴びたのは、日本は勝てばワールドカップ行きが決定するという北朝鮮との一戦になる。

政治的な事情から、北朝鮮のホーム試合が安全面の理由で中立地バンコク開催となり、異例の環境で行われたこの一戦。

途中出場のスーパーサブ大黒が一瞬のスキを突いて右足でゴールを決め、日本は3大会連続のW杯出場を決める。(この試合のテレビ中継の瞬間最高視聴率は57.7%(関東地区)を記録)

現役時代に、12クラブを渡り歩いた大黒のピークは間違いなくこの時期だったと言えるだろう。

Jリーグや日本代表での活躍が認められ当時フランス2部リーグドゥグルノーブルに所属していた大黒に、2006-07シーズンセリエAのトリノFCからオファーが届きイタリアに渡ることになる。

大黒は裏への抜け出しや、ゴール前での決定力に定評があり、日本では「一瞬で勝負を決めるFW」として知られていた。

しかし、トリノでは戦術面やフィジカルの違いに苦しみ、10試合出場0ゴールという期待外れな結果に終わってしまう。

またしても日本人プレーヤーは、セリエAという大きな壁に跳ね返されることになる。

大黒は後年のインタビューで「練習の強度も戦術理解もすべてが違った。しかし自分の中では大きな財産になった。」と語っている。

セリエA日本人プレーヤー8人目 森本貴幸 FW カターニャ/ノバーラ 在籍期間 2006~2013

生年月日 1988年5月7日 身長180センチ 体重 77㎏

セリエA通算109試合出場19ゴール 【活躍度Bランク

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森本貴幸「和製ロナウド」~日本の爆撃機~

セリエAを観戦している人でも、カターニャFCというクラブをご存じの人は今は少ないのではないだろうか。

イタリアのシチリア島に本拠地を置くクラブで、過去の最高成績は8位、2005-06シーズンにセリエBで2位フィニッシュすると、1983-84シーズン以来、23シーズンぶりにセリエA復帰を果たす。

森本が在籍していた2006ー07シーズンから2013-14シーズンはセリエAに残留するが、退団した翌年の2014-15シーズンにはセリエBに降格してしまう。

2025-26シーズン現在はなんとセリエC(3部リーグ相当)に所属している。

2022シーズンには負債が蓄積した影響から破産が決定し、プロ資格も停止され2021-22シーズンのリーグから除外され2022-23シーズンには4部(アマチュア)リーグまで降格しているのだ。

12シーズン前にカターニャに所属し、6シーズンに渡りプレーした森本は2004年にヴェルディのジュニアユースに入団すると、当時Jリーグ史上最年少の15歳10ヶ月6日で公式戦出場を果たす。

中学校卒業前に、プロデビューした森本は当時、世間に大きな驚きを与え脚光を浴びることになる。

東京ヴェルディ在籍時には、Jリーグ最優秀新人賞の獲得や、J1史上最年少得点記録保持者と輝ける実績を誇る。

Jリーグの規格外での活躍が認められ、2006-07シーズンにセリエAに昇格を決めたカターニャへのレンタル移籍が決まる。

移籍直後は、トップチームではなくユースチームでプレーしていた森本だが徐々に頭角を現すと、セリエAのアタランタ戦で初出場を果たす。

後半39分から途中出場すると、その4分後にいきなりセリエA初ゴールを記録することになる。

このゴールはセリエA日本人最年少ゴールであり、セリエAで得点した最年少外国人選手(当時18歳)という快挙でもあった。

若いときにゴールを量産する姿はまさにブラジルのロナウドであり、それと重なった森本は和製ロナウドと呼ばれるようになる。

この試合をきっかけに、森本はカターニャでの出場機会を増やし、翌シーズン以降はチームの中心選手へと成長していく。

2007-08シーズンには、開幕スタメンで1ゴール1アシストを記録すると、そのシーズンのコッパイタリアでは同クラブ史上初のベスト4進出にも大きく貢献。

また、2008-09シーズンにはマンオブザマッチやベストイレブンにも選ばれるなど、このシーズンは23試合出場7ゴールの活躍を見せる。

日本人フォワードがセリエAで通用することを証明した瞬間であった。

ストライカーの成功例がなかったイタリアにおいて森本はその壁を打ち破り、日本人でもイタリアで点が取れることを証明したパイオニアであり、日本の爆撃機と呼べる存在であったことは間違いない。

しかし、2009-10シーズンからチームは低迷し監督交代やケガの影響もあり、徐々に出場機会を失い2013シーズンの冬のマーケットで6シーズン半プレーしたイタリアを離れることになる。

森本はセリエAについて、一貫して守備の厳しさやフィジカルコンタクトに加え、ポジション争いの非情さを強調している。

また、森本は帰国後のコメントで「日本に戻って、サッカーが楽しくなった」セリエAでの重圧から解放され、“サッカーを楽しむ感覚”を取り戻したと語っている。

セリエA日本人プレーヤー9人目 長友佑都 DF チェゼーナ/インテル 在籍期間 2010~2018

生年月日 1986年9月12日 身長170センチ 体重 68㎏

セリエA通算186試合出場9ゴール 【活躍度Sランク

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長友佑都 「鉄人」~おじぎパフォーマンスでチームに溶け込む~

身長170センチと小柄でありながら、無尽蔵のスタミナを誇りチームのムードメーカーでもある長友はセリエAでプレーした初の日本人DFでもある。

JリーグのFC東京でプロデビューを飾った長友は、3年間FC東京でプレーしたのちに、当時セリエAのACチェゼーナに移籍する。

自ら希望した背番号5を身にまとい、開幕スタメンで記念すべきセリエA初の日本人DFとしてピッチに立った長友は、ASローマ相手にフル出場を果たし存在感を見せつける。

それ以降もスタメンフル出場を続けていた長友は、インテルの監督に就任した鹿島でプレー経験のある元ブラジル代表のレオナルドから獲得を熱望され移籍が実現する。

長友はイタリア移籍からわずか半年で、インテルというビッククラブ行きの切符を手にすることになる。

2009-10シーズン世界的名将ジョゼ・モウリーニョを擁し、チャンピオンズリーグ制覇を成し遂げたインテルには数々のスター選手が名を連ねる。

FWにはアルゼンチン代表ディエゴ・ミリートとカメルーン代表のサミュエル・エトー。

中盤にはオランダ代表のヴェスレイ・スナイデルやアルゼンチン代表のハビエル・サネッティにエステバン・カンビアッソ。

DFラインにはブラジル代表のルシオにマイコン、GKにはジュリオ・セーザルと言ったスター選手達の中にあっても長友に臆するところはない。

長友のインテルでのデビュー戦はセリエA第24節のローマ戦で途中出場し、守備とスプリント力で存在感を示し、現地メディアからも好評価を受ける。

また、チャンピオンズリーグでも日本人4人目となる決勝トーナメント進出を果たし、内田篤人が所属するブンデスリーガのシャルケ04と対戦し初の日本人対決も実現。

翌2011-12シーズン、インテルへの完全移籍が発表され5年契約にサインすることになる。

長友の特筆すべきプレースタイルは何と言っても90分間、上下動を繰り返す唯一無二のスタミナであり、圧倒的な運動量とスプリント力に尽きる。

インテル移籍後、肉体改造によって体幹を強化し、当たり負けしないフィジカルを身に付けセリエAに対応できる鉄人となったのは、長友の努力の賜物ではないだろうか。

更にこの当時、インテルには世界最高峰の右サイドバックと謳われていたブラジル代表のマイコンの存在も少なからず長友のプレースタイルに影響を与えたことは間違いない。

世界最高レベルの「攻撃的サイドバック」のマイコンは爆発的な推進力に加えゴールに直結するプレーが特徴の選手。

右サイドに特化したマイコンに対し、左右両サイドのウイングバックをこなせる長友は決してマイコンに引けを取らない選手と言っても過言ではない。

日本人としてインテルのようなビッグクラブで7年間プレーし、ゲームキャプテンを代行するほど信頼も厚かった選手なのだ。

また、おじぎパフォーマンスは、ゴールを決めた時やアシストした時に「ナガトモの礼儀正しさ」と称賛され一気に人気になり、加入後すぐチームに溶け込んだ証として取り上げられた。

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世界的名門インテルに、7シーズン半在籍した長友は2018ー19シーズンにトルコリーグの名門ガラタサライへと戦いの場を移す。

退団については、ネガティブな決別ではない新しい挑戦を選んだだけと明言。

インテル退団後のコメントでは「毎日が生き残りを懸けた競争」「練習から100%でやらないと置いていかれる」と語り、インテルで“基準”が引き上げられたとコメント。

セリエA日本人プレーヤー10人目 本田圭佑 MF/FW ミラン 在籍期間 2014~2017

生年月日 1986年6月13日 身長182センチ 体重 74㎏

セリエA通算81試合出場9ゴール 【活躍度Cランク

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本田圭佑~背番号10を自ら要求したビッグマウス~

世界的名門ACミランでちょうど空いていたからという理由で背番号10を要求し、ミランで初の10番を背負った日本人選手となった。

当時本田圭佑=ビッグマウスという印象となっていこともあり大きな注目を浴びて念願のビッグクラブミラン移籍を果たした。

2005年にJリーグの名古屋グランパスでプロデビューを飾り、オランダのVVVフェンロからロシアのCSKAモスクワを経由してのミラン入り。

本田のキャリアは誰の目にも順風満帆に映っていたのではいないだろうか。

そんな本田圭介のプレースタイルとして特筆すべきは、キック精度の高さと左足の破壊力は最大の武器ではないだろうか。

強烈なミドルシュートを兼ね備え、無回転シュートの名手としても知られ、ロングレンジからでも常に脅威を与えられるキック精度を誇る。

2010年ワールドカップ南アフリカ大会第2戦のデンマーク戦で決めた直接FKは、30メートル超の無回転フリーキックを叩き込んでみせた。

“ジャブラニ(公式球)無回転”を最大限に活かした伝説的ゴールとして今もなお語り継がれている。

余談ではあるが、こちらのブログ管理者でもあるベニーワイズは、この時の本田のフリーキックシーンのものまねを得意とし、高いクオリティーを誇っている。

本題の本田のプレースタイルに戻るが、フィジカルの強さとキープ力「相手を背中で消す」独特のボールキープは特徴的でボールを保持する技術が非常に高い。

相手を押しのける体幹の安定性は世界でもトップクラスで、ハードワークを惜しまず攻守の規律、戦術の実行度はミランでも高く評価される。

冬の移籍市場でミラン入りした本田のデビュー戦は、第19節サッスオーロ戦で後半から途中出場し、セリエAデビューを果たす。

この2013-14シーズンは、シーズン途中からの加入ということもあり、14試合出場1ゴールの成績でセリエA1年目のシーズンを終える。

翌2014-15シーズンは監督交代もあり本来のトップ下のポジションから、右ウイングで起用されることになる。

すると、セリエA開幕のラツィオ戦に先発出場して先制点を決めると、続く第2節でも1ゴール1アシストを記録する。

更に、第7節のベローナ戦ではイタリア移籍後初の2ゴールを記録しチームの勝利に貢献。

迎えたセリエA第12節のミラン対インテルのミラノダービーで、史上初めて日本人対決が実現することになる。

イタリア移籍2年目を迎えた本田は、シーズン前半序盤で7試合6ゴールを記録し、いよいよ本領発揮かと思われたが、結局このシーズンは29試合に出場し序盤に挙げた6ゴールのみでフィニッシュ。

このシーズンは、本田にとってミランで最も輝いたシーズンでもあり「本田が最も“ミランの10番”だった瞬間」であったと言えるだろう。

翌2015-16シーズン以降は、監督交代の影響もありスタメンを外れることも多くリーグ戦では目立った活躍が出来ず、2016-17シーズンは8試合の出場に留まりイタリアの地に別れを告げる。

ミランの10番は試合を支配しなければならず、本田は“良い選手”だがエースではない。

特にシーズン通算の得点数の少なさは、結果だけを見れば批判の的になった。

華やかな10番ではなく、泥臭く勝利に貢献し続けた10番であったと言えるのではないだろうか。

退団後に本田は「ミランで10番を背負えたことは誇り、だが結果には満足していない」批判も含めて10番の宿命という表現で、覚悟を持って挑戦していたことを強調している。

ロシアのCSKAモスクワ時代が長すぎたことも本田圭佑がイタリアで活躍できなかった原因ではあると思う。

もしも2011年あたりにもう少し早くACミランへと加入していたら結果は違っただろう。

セリエA日本人プレーヤー11人目 冨安健洋 DF ボローニャ 在籍期間 2019~2021

生年月日 1998年11月5日 身長188センチ 体重 84㎏

セリエA通算61試合出場3ゴール 【活躍度Aランク

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冨安健洋「規律」「冷静さ」「勇敢さ」を兼ね備えた~侍ディフェンダー~

冨安のイタリア挑戦の始まりは2019ー20シーズンにベルギーリーグのシント=トロイデンVVから移籍金700万ユーロで加入する。

久しぶりに侍日本人DFがセリエAのクラブに加入したことになり、私もワクワクしたものだ。

当時、日本人がセリエAでプレーするのは減少傾向になっていたこともあり、特にDFでもあることから注目度は高かった。

セリエA開幕戦のエラス・ベローナ戦では右サイドバックとしていきなりスタメンデビューを果たし、安定感あるプレーに多くの称賛の声が上がった。

1対1の強さが際立ち、地上戦で相手を完全にシャットアウトし、フィジカル負けの場面も無く、現地メディアからも“衝撃デビュー”と評される。

22歳にしてまるで30歳のような成熟度と、若手離れした心構えやプロ意識も評価され「熱心で努力を惜しまない選手」として紹介される。

冨安のプレースタイルは、守備の安定感はもちろん両足・複数ポジション対応・ビルドアップの質も兼ね備えている。

サイドからセンターまで柔軟なポジション対応なども評価され真に「ユーティリティディフェンダー」と言っても過言ではない。

移籍初年度にしながら、なんと加入2か月後の8月度には、クラブ月間MVPにも選出されるほどの活躍を見せる。

2020-21シーズンには、首位を走るインテルと対戦し当時2トップを構成していたアルゼンチン代表のラウタロ・マルティネスとベルギー代表のロメル・ルカクに対しても互角以上のプレーを披露。

辛口評価で有名なイタリアスポーツ紙も、こぞって冨安のプレーには及第点を与えていた事からも、その活躍ぶりが窺える。

ボローニャで一定の評価を得ていた冨安に対しては、当然のようにビッグクラブから熱視線が送られる。

2021年夏、移籍市場最終日に報道で約 1600万ポンドという金額でボローニャからアーセナルへの完全移籍が発表される。

冨安は退団後、最初に口にした言葉は「ボローニャには感謝しかない」若い自分を主力として使ってくれ、セリエAで戦う土台を作ってくれたとコメント。

また、セリエAの印象を、世界的ストライカーと常にマッチアップする環境を回想し「毎週がビッグマッチだった」「簡単な試合は一つもなかった」と語っている。

冨安のセリエAでの活躍を考慮すれば、【活躍度Sランク】を付けたいところだが、在籍期間2シーズンと短期であった為、敢えてAランクとさせて頂きたい。

セリエA日本人プレーヤー12人目 吉田麻也 DF サンプドリア 在籍期間 2020~2022

生年月日 1988年8月24日 身長189センチ 体重 87㎏

セリエA通算72試合出場3ゴール 【活躍度Aランク

吉田麻也~日本の守備リーダーキャプテン吉田~

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W杯3大会出場、アジア杯やオリンピック代表の経験など、日本代表を10年以上支えキャプテンでもあった吉田麻也。

2019-20シーズンに、8シーズンに渡ってプレーしたイングランドの古豪サウサンプトンから、イタリアの古豪でもあるサンプドリアに加入。

サンプドリアの歴史を辿ると、1990-91シーズンにセリエAで優勝すると、1992年に欧州チャンピオンズカップ(現チャンピオンズリーグ)では決勝進出を果たす。

またコッパ・イタリア優勝4回などの栄光を持つセリエAの古豪である。

しかし、近年は成績低迷が続き2023年のセリエB降格以降は苦しい戦いが続き、その後のセリエBでも低迷し、一時はクラブ史上初のセリエCへ自動降格させられる危うい場面も。

戦績不振と財政問題がクラブ運営を困難にし、多くの歴史的成功を誇る一方、現在は厳しい状況に直面しているが再び上位リーグへ戻るための挑戦が始まっている。

吉田の加入は、真にチームが低迷期を迎える直前での加入となる。

冬の移籍市場でサンプドリアに加入した吉田のデビュー戦は、セリエA第26節エラス・ベローナ戦で初出場を果たす。

フル出場を果たし安定した守備でチームの勝利に貢献、監督やサポーターからも信頼を勝ち取り“守備の柱”として定着することになる。

途中加入ながら吉田はサンプドリアで定位置を確保し、その後レギュラーとしてリーグ戦14試合に出場。

翌シーズン、レンタル加入だった吉田は契約延長に合意し完全移籍に移行すると、セリエA第19節のパルマ戦ではセットプレーからのこぼれ球を押し込み記念すべきセリエA初ゴールを記録する。

この試合は吉田の活躍もあり、チームは2-0で勝利するが、吉田のゴールはクラブ史上初のアジア人選手が決めた得点となる。

吉田のセリエA2年目のシーズンは、32試合出場1ゴールという記録でサンプドリアは9位フィニッシュでシーズンを終える。

翌2021-22シーズン、吉田にとってセリエA最終年となるが今シーズンもレギュラーとしてプレーし、26試合に出場し2ゴールを記録する。

サンプドリアでの数年間、30代に入ってからのセリエA挑戦にもかかわらず、吉田麻也はイタリア国内で確かな信頼を勝ち取った。

セリエAで成功した数少ない日本人DFとして、非常にポジティブな評価を得ていたことは間違い。

残留争いの中での安定したパフォーマンスと、苦しい時期でも責任を引き受ける姿勢は、信頼できるベテランという立ち位置を確立したと言えるだろう。

イタリア人記者から見た吉田は、ミスの少ない安定したDFであり読みと戦術で勝負する知的なセンターバックでもある一方、スピード不足でビルトアップで堅実すぎると言った声も上がっている。

吉田自身サンプドリア退団後に「セリエAは考えないと守れないリーグ。頭を使い続けることで自分も成長できた」と語っている。

また「日本人DFが評価されることを証明できた。本当にチャレンジして良かった。人生の財産」というコメントも残している。

セリエA日本人プレーヤー13人目 鎌田大地 MF ラツィオ 在籍期間 2023~2024

生年月日 1996年8月5日 身長184センチ 体重 76㎏

セリエA通算29試合出場2ゴール 【活躍度Cランク

鎌田大地 ~『EL男』フランクフルト時代にはヨーロッパリーグ制覇~

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鎌田大地のヨーロッパでのサッカーシーンで印象的なのは、フランクフルト時代にクラブの42年ぶりのヨーロッパリーグ(EL)制覇に貢献し、優勝カップを掲げたシーンが印象的だ。

ヨーロッパリーグの全身でもあるUEFA杯を制覇したフェイエノールト小野伸二以来、長谷部誠と共に日本人として20年振りの快挙達成でもある。

ヨーロッパリーグ通算13試合出場 5得点 1アシスト、チームのエース級の活躍で特に“ビッグマッチに強い”として欧州で一気に評価を上げたシーズンでもある。

このシーズンの活躍もあり、鎌田はステップアップを模索しフランクフルトとの契約更新はせず、完全移籍ではなく“フリートランスファー(自由移籍)移籍金ゼロでラツィオに加入。

ラツィオは当時、セルビア代表のミリンコヴィッチ=サビッチ(→アル・ヒラル)の離脱により運動量があり走れるインサイドハーフの獲得が急務だった。

ステップアップを模索していた鎌田と、インサイドハーフの補強が急務だったラツィオの思惑が一致しての移籍成立だったと言えるだろう。

当時のラツィオ指揮官マウリツィオ・サッリは「技術は高い。あとは戦術理解」と慎重に評価していたが、クラブ幹部は即戦力と判断。

完全移籍で契約期間1年+延長オプション、1年契約という短期契約が話題になったが、当時鎌田が「柔軟に判断できるように」希望したという報道が流されている。

セリエA開幕のレッチェ戦でスタメンデビューを飾ると54分までプレー、結果は敗戦となるが鎌田は存在感を見せつける。

第3節のナポリ戦ではセリエA初ゴールを記録すると、このゴールが決勝ゴールとなりチームの勝利に貢献。

鎌田のセリエAの船出は順風満帆に見えたが、指揮官サッリは古参選手とフィジカルに優れた選手を重宝し、新加入の鎌田は徐々に出場機会を制限されることになる。

この状況に鎌田は、冬の移籍市場に出場機会を求め、一時はイングランド・プレミアリーグのクリスタル・パレスと個人合意に達しチームを離れる事を画策する。

しかし、クラブ側は移籍を容認せず鎌田はチームに残留することになるが、指揮官サッリの辞任に伴い新指揮官イゴール・トゥドールが就任すると状況は一変する。

トゥドールによって戦術的自由度を与えられた鎌田は評価を回復し、イタリア各紙からも安定した高採点を得てラツィオ中盤の重要なピースとなる。

セリエA第37節、敵地ジュゼッペ・メアッツァで連続無失点記録を継続中だったインテルを相手にゴールを記録し、チームの貴重な勝ち点獲得に貢献。

このシーズン、リーグ戦28試合出場2ゴール2アシストを記録した鎌田だがシーズン終了後にラツィオを退団することになる。

トゥドール監督は鎌田の契約延長を熱望したが、クラブ側から明確な延長オファーはなく、鎌田側も新天地への移籍を希望したとも言われている。

また、新たなクラブへの移籍の為に1年延長を希望する鎌田側と、複数年契約を希望するラツィオ側との溝が埋まらなかった事が移籍の要因とも。

しかし、鎌田ほどの実力者であれば複数年契約を結びラツィオの中盤に君臨していれば、古豪ラツィオ復活の足掛けとなったのではないだろうか。

クラブ側は慰留を希望していたにも関わらず、わずか1年でイタリアの地を離れる決断をした鎌田の選択は残念でならない。

セリエA日本人プレーヤー14人目 鈴木彩艶 GK パルマ 在籍期間 2024~現在

生年月日 1979年4月5日 身長190センチ 体重 100㎏

セリエA通算37試合出場0ゴール(2024-25シーズン) 【活躍度Aランク

鈴木彩艶~日本代表の新守護神~

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2025-26シーズン現在、イタリアセリエAでプレーする唯一の日本人選手がパルマに所属するGK鈴木彩艶である。

また、鈴木はセリエAでゴールキーパーとしてプレーした初の日本人プレーヤーでもある。

ガーナ人の父と、日本人の母を持つ鈴木は、浦和レッズのユースからクラブ史上最年少となる16歳5か月11日でプロ契約を締結する。

2022年ルヴァンカップなど国内カップ戦でトップチームデビューを果たし、若手ながら落ち着いたプレーで注目を集める。

この当時「サイズと反応速度を兼ね備えた次世代GK」として国内での評価が急上昇することになる。

2022年には、若くしてA代表に招集されると、将来の日本代表正GK候補として注目度が急上昇し、ベルギーリーグのシント=トロイデンに移籍する。

加入当初は控えだったが徐々に出場機会を得ると、ベルギーリーグ特有のフィジカルや空中戦、ハイテンポな展開に順応していく。

リーグ戦32試合に出場し、多くの試合で好パフォーマンスを披露した鈴木は、翌2024-25シーズンにパルマに完全移籍を果たす。

移籍金17億円という金額で、日本人GK初のセリエA挑戦となった鈴木は1年目からスタメンに定着。

セリエA初先発試合は、スーパーセーブよりも「大崩れしなかった90分」として評価されている。

また、イタリアで最も重要視される1対1の対応と冷静さを示し、若手GKとして確かな一歩を刻んだ。

イタリアメディアは鈴木を「GKとしての基礎と将来性を高く評価できる存在」とした上で、特に1対1の強さと落ち着きはセリエAでも高水準にあると評価される。

移籍初年度、セリエA全試合にほぼフル出場を果たした鈴木は、クリーンシート(無失点試合)7試合とパルマの1部残留に大きく貢献。

2年目を迎えた2025-26シーズンも、鈴木はパルマの正GKとしてシーズン序盤から出場機会を得ており、出場した全ての試合で先発フル出場を続けている。

現在(2025-26シーズン)セリエA唯一の日本人プレーヤーであり、日本代表の新守護神として活躍する鈴木には、パルマでの奮闘に期待するとともに近い将来、セリエAのビッグクラブのゴールマウスに立つ姿を見たいものだ。

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