セリエAを愛し、ロベルト・バッジョが好きな私がCL優勝してないロベルトバッジョがバロンドールを受賞できた理由を書きたいと思ったのは、このyahoo知恵袋の投稿をみたからだった。

現代のバロンドールは、CLやワールドカップで主に優勝を経験した選手が受賞される傾向にある。
だがバッジョが活躍していた時代は、少し評価基準が今とは異なっていたのとUFFAカップ(現ヨーロッパリーグ)とチャンピオンズリーグとの大会のレベルの差がなかったという点だ。
結論から言ってしまえばバッジョが1993年にバロンドールを獲得できたのは、セリエAでゴールを量産していたことが最もな理由である。
バッジョが果たしてバロンドールに値する選手だったのか、この記事では彼のキャリアを振り返りながら詳細に紐解いて行きたい。
またロベルト・バッジョを知らない世代のために彼のサッカー人生をデビューから引退まで書き記したので、より理解していただけるかと思う。
もしこの記事を読んでバッジョがバロンドールに相応しくない、受賞していること自体を疑問に思う方がいたら、コメントで教えてほしい。
- イタリア史上最も愛された天才ロベルト・バッジョとは
- 1982-85シーズン:プロデビューはヴィチェンツァ 36試合出場13ゴール
- 1985ー90シーズン:フィオレンティーナ在籍時代 94試合出場17ゴール
- 1990-1995シーズン:ユベントス在籍時代 141試合出場78ゴール
- 1995-1997シーズン:ミラン在籍時代 51試合出場12ゴール
- 1996-97シーズン:ボローニャ在籍時代 30試合出場22ゴール
- 1998-00シーズン:インテル在籍時代 41試合出場9ゴール
- 2000-04シーズン:ブレシア在籍時代 95試合出場45ゴール
- 「勝利よりも美しさ ― CLを制さず世界一になったバッジョという奇跡」
イタリア史上最も愛された天才ロベルト・バッジョとは
Embed from Getty Images生年月日 1967年2月18日 身長174センチ 体重 73㎏
ロベルト・バッジョのサッカー人生は、栄光と挫折、復活と孤独が交錯する物語だったと言えるだろう。
バロンドール受賞やW杯の悲劇を経て、彼は結果以上に「美しさ」と「人間味」で記憶される存在となった。
セリエAにおいて創造性の象徴とされた存在でもあるバッジョは、今もなお世界中で愛され続けている。
イタリア史上最も愛された天才は、戦術を超える存在と評され個の能力で試合の流れを変えられる選手でもあった。
度重なる大怪我からの復活や、宗教観かつ哲学的な生き方もさることながら、勝者であり敗者でもあったストーリー性が結果以上に人々の心を打ったのではないだろうか。
「イタリアの至宝」と謳われ「生粋のファンタジスタ」としてピッチを彩ったロベルト・バッジョのサッカー人生に迫って行きたい。
歴代所属クラブ 1982~2004
- 1982~1985 ヴィチェンツァ
- 1985~1990 ACFフィオレンティーナ
- 1990~1995 ユヴェントス
- 1995~1997 ACミラン
- 1997~1998 ボローニャFC
- 1998~2000 インテル
- 2000~2004 ブレシア
セリエA通算490試合出場220ゴール
イタリア代表歴 1988~2004
1990年 – ワールドカップイタリア大会(3位)
1994年 – ワールドカップアメリカ大会(準優勝)
1998年 – ワールドカップフランス大会(ベスト8)
イタリア代表通算57試合出場27ゴール
個人タイトル
- バロンドール 1993
- FIFA世界年間最優秀選手1993
- 英紙ワールドサッカー選出世界年間最優秀選手 1993
- オンズドール 1993
- ブラヴォー賞1990
- FIFA100 2004
- ゴールデンフット賞2003
1982-85シーズン:プロデビューはヴィチェンツァ 36試合出場13ゴール
Embed from Getty Images当時、セリエCのヴィチェンツァで17歳でトップチームデビューを飾ったバッジョは、3シーズンに渡りヴィチェンツァでプレーする。
細身で線も細く、誰もが「才能はあるがプロでは厳しい」という見解を示したが、小刻みなタッチと独特のリズムでボールを操り、フリーキックの才能もすでに突出していた。
この頃のバッジョは、後年の「静」ではなく本能と直感の10代のバッジョと言えるだろう。
1984–85シーズンにバッジョは、セリエC1 30試合出場12ゴールを記録し、チームをセリエB昇格へ導き、昇格プレーオフでの活躍がイタリア国内に大きな衝撃を与える。
そのプレースタイルが各クラブのスカウト陣の目に留まり、1985-86シーズンにフィオレンティーナに移籍することになる。
1990-1991シーズンセリエAを制したサンプドリアを作り上げた名SDクラウディオ・ナッシが15歳の無名だったロベルト・バッジョをヴィチェンツァから獲得しようとしていた。
しかし現時点で彼の価値はわからないのでという理由で断られたというエピソードがある。
ナッシはバッジョの獲得をすぐに諦め、代わりに獲ったのがのちのサンプドリアのスターであるロベルト・マンチーニだった。
セリエC(3部リーグ相当)で衝撃的なプレーを披露したバッジョではあるが、この当時に後年のバロンドール受賞を予想できていたのはナッシだけかもしれない。
バッジョ自身、ヴィチェンツァの街は自分を育ててくれた街であり、「すべてはここから始まった」と語る場所でもあった。
1985ー90シーズン:フィオレンティーナ在籍時代 94試合出場17ゴール
Embed from Getty Images当時18歳のバッジョは、史上最高額級の移籍金でフィオレンティーナに加入。
バッジョのフィオレンティーナ時代(1985–1990)は、彼が「天才」から街の象徴になった特別な5年間でもある。
すでにイタリアメディアの間では「次の世界一の10番候補」=「バロンドーラー」と目されていたバッジョだが、それは確信ではなく予感でもあった。
当時のセリエAは世界で最も守備が厳しいリーグであり、その中で守備を一瞬で無効化する選手は非常に稀であったと言える。
しかし、フィオレンティーナ移籍直後は順風満帆ではなく、いきなりバッジョは悲劇に見舞われることになる。
右膝十字靭帯断裂の大怪我を負い医師からは「以前のレベルに戻る保証はない」「競技復帰は50%以下」という厳しい診断を下される。
絶望したバッジョはこの時、母親に対して「僕のことを愛しているなら殺してほしい」とさえ言ったという。
それでもフィオレンティーナは、将来性を信じてバッジョとの契約を維持する。
バッジョは、不屈の精神でリハビリに挑むが、リハビリ初期は膝が90度以上曲がらず、階段の昇り降りも不可能でメディアからは「高額移籍金の失敗例」と報道される。
復帰に向けバッジョは、無理な筋トレを避け柔軟性を重視し、ボールタッチを座った状態で早期に再開、この姿勢が後のしなやかなプレースタイルに繋がったとも言われている。
プレシーズンで徐々に実戦復帰を果たすが、スピードが戻らない代わりにワンタッチプレーや、判断の速さを身に付けた真に知性を得たバッジョが誕生。
1986-87シーズンはケガの影響で5試合の出場にとどまるが、1987-88シーズンはリーグ戦27試合に出場し6ゴールを記録する。
徐々に調子を上げて行きその後は完全復活を果たし、2シーズン連続で2桁得点を挙げる活躍を見せる。
フィオレンティーナでのバッジョは、中央で自由を与えられた10番であり、ドリブル・スルーパス・FKを一手に担い、当時としては異例でもある守備免除を許された選手でもある。
ペナルティエリア外からのコントロールショットや、相手DFの間をすり抜ける静かなドリブルは、この時代に完成されたと言っても過言ではない。
毎試合のように“美しいゴール”を量産したバッジョは、セリエA屈指のファンタジスタとして君臨することになる。
フィオレンティーナでの復活は肉体の回復ではなく、選手としての進化であり、後年バッジョは「あの怪我がなければ、今の自分はない」とも語っている。
フィオレンティーナでの活躍が認められたバッジョは、この年の国際親善試合オランダ戦で代表デビューを飾る。
イタリア代表に初招集され、ユベントス移籍への切符を手にしたバッジョに対し、イタリアメディアは近い将来バッジョのバロンドール獲得を確信したのでないだろうか。
1990-1995シーズン:ユベントス在籍時代 141試合出場78ゴール
Embed from Getty Images1990-91シーズン、バッジョ本人としては望まぬ移籍となってしまうが、当時としては史上最高額の150億リラ(約18億円)という移籍金でユベントスに加入。
この移籍は「禁断の移籍」として後世まで語り継がれることになる。
フィレンツェの街では暴動が起こりバッジョは裏切り者扱いされ、スタジアムではバッジョがボールを持つたびに大ブーイングが巻き起こりサポーターから非難を浴びることになる。
しかし、ロベルト・バッジョのユベントス時代(1990–1995)は、彼が世界最高の選手に到達した頂点であり、同時に最も重圧を背負った5年間でもある。
結果的にバッジョがバロンドールを獲得したのは、ユベントスに移籍して3シーズン後の1992-93シーズンとなる。
【1993年バロンドールノミネート上位選手】
| 順位 | 選手 | 国籍 | クラブ | ポイント |
| 1 | ロベルト・バッジョ | イタリア | ユベントス | 142 |
| 2 | デニス・ベルカンプ | オランダ | インテル | 83 |
| 3 | エリック・カントナ | フランス | マンチェスターユナイテッド | 34 |
| 4 | アレン・ボクシッチ | クロアチア | ラツィオ | 29 |
| 5 | ミカエル・ラウドルップ | デンマーク | バルセロナ | 27 |
| 6 | フランコ・バレージ | イタリア | ミラン | 24 |
| 7 | パオロ・マルディーニ | イタリア | ミラン | 19 |
| 8 | エミル・コスタディノフ | ブルガリア | ポルト | 11 |
| 9 | ライアン・ギグス他 | ウエールズ | マンチェスターユナイテッド | 9 |
CL制覇を経験していないバッジョが、1992-93シーズンにバロンドールを獲得出来た要素を3つ挙げるとすれば
- 欧州タイトルの主役だった:UEFA杯(現ヨーロッパリーグ)は当時、出場クラブが多く最も過酷な大会と言われていた事。
- セリエAで最も影響力のある選手だった:90年代前半のセリエAは世界最高レベルのリーグの中、バッジョは得点、アシスト、フリーキック、ドリブル突破すべてにおいてリーグ屈指。
- ファンタジスタの象徴だった:創造性、美しいプレー、決定力を兼ね備えたファンタジスタとして世界を魅了。
フィオレンティーナ時代は天才だが不安定さが目立ち怪我も多かったが、ユベントスでは得点力、試合支配力、勝負強さすべてが揃った。
つまり天才が世界最高の選手に到達した瞬間であり、1993年世界で最も輝いたサッカー選手だったと言える。
ユベントス時代の立ち位置は、完全に自由を与えられていた訳ではないが、攻撃の中心でありボールを預ければ違いを作れる存在として重宝されることになる。
ユベントスで中心選手へと成長したバッジョは、イタリア代表としてもワールドカップで世界中のファンを魅了する。
1990年FIFAワールドカップイタリア大会
このシーズンには地国開催のイタリアワールドカップが開催され、バッジョはイタリア代表メンバーに選出され自身初のワールドカップ本大会に挑んだ。
大会当初はスタメンから外れていたが、チームが勝ち進むにつれて序列を上げていく。
迎えたグループリーグ3戦目のチェコスロバキア戦では、個の力で打開しドリブル突破から見事なゴールを挙げる。
準決勝でアルゼンチンに敗れることになるが、3位決定戦のイングランド戦ではゴールも記録し、また決勝点となるPKを獲得するなど同国を3位に導く活躍を見せた。
UEFAカップ(現ヨーロッパリーグ)優勝 FIFA最優秀選手賞、バロンドールを獲得
クラブシーンでは1992-93シーズンと翌1993-94シーズン、バッジョは大車輪の活躍を見せる。
セリエAで21ゴールを記録すると、UEFAカップ(現ヨーロッパリーグ)では決勝のドルトムント戦で2ゴールを挙げタイトル獲得に大きく貢献。
Embed from Getty Imagesユベントスにとって7シーズンぶりのヨーロッパタイトルをもたらし、このシーズンにバッジョはバロンドールとFIFA最優秀選手賞をダブル受賞する。
CLの下のカテゴリーでもあるUEFA杯に出場していたにも関わらず、バロンドールを受賞した選手は、現在のチャンピオンズリーグのレベルの高さを考えると異例とも言えるだろう。
この事実は、当時のイタリアセリエAの注目度の高さと、レベルの高さを如実に物語っているのではないだろうか。
1992-1993シーズンのUEFAチャンピオンズリーグ決勝ではセリエAのミランとフランスのマルセイユが対戦しており、セリエAのチームがヨーロッパの大会で2つも決勝に進出していることがその証である。
世界中からスター選手が集い、現在のプレミアリーグのビック6を上回るビック7が存在していたセリエAで活躍することが、どれほど困難なことであったかが伺える。
1994年FIFAワールドカップアメリカ大会
バロンドールを受賞した翌年、自身2度目のワールドカップを迎えることになるが、前年度のバロンドーラーとして大きな注目を浴び、厳しいマークにも晒される。
また、本大会直前に右足を痛めて万全でない状態の出場となってしまう。
グループステージ初戦を落としたイタリア代表は1勝1分1敗とし、バッジョもノーゴールと振るわずグループリーグ3位という結果に終わる。
しかし、当時24か国の出場枠だった同大会では得失点差で3位に入った上位チームにも、決勝トーナメント進出の権利が与えられる。
辛うじて決勝トーナメント進出を果たしたしたイタリア代表は、グループリーグ同様、厳しい戦いを強いられることになる。
苦戦を強いられている同代表の中で、孤軍奮闘するバッジョは初戦のナイジェリア戦で2ゴールを挙げて逆転勝利に導く。
続くスペイン戦で1ゴール、準決勝のブルガリア戦でも2ゴールを挙げる活躍を見せ決勝まで勝ち上がる。
王国ブラジルとの決勝を前にバッジョの右足は、大会前から痛めていたケガに加えて準決勝のブルガリア戦でも負傷を負い、満身創痍の中での強行出場となる。
大会最多優勝回数と、得点王争いも注目された今大会の決勝は、90分間では決着がつかず延長戦でもゴールは生まれなかった。
スコアレスにより大会史上初のPK戦にもつれ込むことになる。
両チーム共に最初のキッカーが失敗するという波乱の幕明けとなったPK戦は、5人目のバッジョがゴールを決めなければ負けが確定してしまう場面となる。
PKキッカーとしても、何度も重要な場面で決定的なゴールを決めてきたバッジョが放ったボールは、無情にもゴールバーの左上を抜けていき、ゴールマウスを大きく外してしまう。
Embed from Getty Imagesこの瞬間、王国ブラジルが史上最多4度目の優勝を成し遂げることになるが、グループリーグ3位通過のイタリアが決勝まで勝ち上がることを誰が予想出来たか。
イタリアはこの大会、特に決勝トーナメントに入ってからは、バッジョが1人で勝ち上がらせたと言ってもいい状態だった。
1994年アメリカW杯・決勝のPK戦はロベルト・バッジョのキャリア、そしてサッカー史上最も語られる瞬間だったと言えるだろう。
優勝は逃したが、この大会は間違いなくロベルト・バッジョが主役であり、勝者よりも記憶され、トロフィーよりも語り継がれ、美しさと悲劇が共存する瞬間だったのではないか。
W杯でこれほどのインパクトを残した事実は、バロンドール受賞に輝いた選手であることも頷ける。
後年、バッジョは自伝の中で「PKを外すことができるのは、PKを蹴る勇気を持つ者だけだ」という名言を残している。
所属クラブユベントスは9年ぶりのリーグ優勝とコッパイタリアの2冠を達成
クラブシーンに戻ると、1994-95シーズンはワールドカップの激闘もあり、怪我の影響で多くの試合で欠場を強いられることになる。
しかし、シーズン後半戦は復調し、ユベントスの9年ぶりのリーグ優勝とコッパイタリアの2冠獲得に大きく貢献。
また、ユーベ在籍中も古巣フィオレンティーナと対戦しゴールを決めた時は、喜びは見せず自分の美学を優先する行為は、いかにもバッジョらしいと言えるだろう。
翌1995-96シーズン開幕前に、クラブ側からスタメン起用は保証されないという事実に加え、減給まで要求されることになったバッジョはミランに新天地を求める。
この移籍の背景には、「バッジョのサッカー」と「指揮官リッピのユベントスのサッカー」が共存できなくなったことに尽きる。
単なるクラブ間移動ではなく「サッカー観の衝突」と「時代の転換」が重なった必然であったと言える。
バロンドールを受賞し、フットボーラーとして頂点に登り詰めたユベントス時代。
しかし、このユベントス時代にCL制覇とW杯優勝を果たせなかった事実は、バッジョのその後のサッカー人生に大きな影響を与えたことは間違いないだろう。
1995-1997シーズン:ミラン在籍時代 51試合出場12ゴール
Embed from Getty Images昨シーズンまで、ミランの絶対的エースとして君臨していたオランダ代表のマルコ・ファンバステンが開幕前に30歳という若さで現役引退。
ミラン指揮官ファビオ・カペッロの狙いは、バッジョの勝負を決める個の能力と、膠着した試合に変化をもたらす存在であり、欧州制覇への切り札としての獲得だったと言える。
ユベントスでバロンドールを獲得し、W杯でも孤軍奮闘したバッジョの活躍を、多くのファンやサポーターは予感していたはずだ。
しかし、ミランは確かにバッジョを必要としたが、バッジョ中心のチーム作りをする覚悟はなかった。
当時のミランには、ユーゴスラビア代表のサビチェビッチに加えクロアチア代表のボバンといったタレントも在籍していたこともあり、出場機会も限定的なものとなる。
移籍初年度は先発とベンチを行き来することになり、コンスタントな出場機会を与えられたとは言い難いが、ミランのスクデット獲得に貢献。
Embed from Getty Images限られた時間で決定的な仕事をする切り札として、バッジョにとってユベントス時代から2シーズン連続となるリーグ優勝を経験する。
古巣ユベントス戦でのゴール後には、一切喜ばず静止したバッジョに対して、ミランサポもユーヴェサポも沈黙したシーンは、バッジョらしさが最も表れた瞬間だったと言えるだろう。
しかし、ミランでの2シーズン目は監督交代の影響もあり出場機会は激減し、ベンチから戦況を見守る日々が続く。
当時のミランにとって10番タイプの選手は不要で、個の自由より戦術を重視していたことが、チームに完全に溶け込めなかった最大の要因と言えるだろう。
結局、この1996-97シーズンは23試合に出場し5ゴールという結果に終わり、2シーズンをトータルしても51試合出場12ゴールと不本意な成績でミランを去ることになる。
ミラン時代のバッジョは、檻に閉じ込められた天才であり出場すれば違いは作る、しかしチームの中心になる事はなく物語も生まれない。
今も語られるのは、もし当時のミランが10番中心のチームだったら、間違いなくバッジョがミランを牽引し欧州制覇を成し遂げ、自身2度目のバロンドール受賞も実現したのではないだろうか。
1996-97シーズン:ボローニャ在籍時代 30試合出場22ゴール
Embed from Getty Imagesミランで失意のシーズンを過ごしたバッジョだがその人気ぶりは衰えることを知らず、マンチェスターユナイテッドをはじめ、バルセロナやイタリア国内の新興勢力パルマも獲得に乗り出す。
しかし、バッジョが移籍先に選んだのは国内のビッククラブから敬遠されたことが影響し、セリエAの中堅クラブでもある古豪ボローニャだった。
バロンドールを獲得し、ビッククラブや代表でも大車輪の活躍を見せた選手の中堅クラブへの移籍は、異例とも言える。
ロベルト・バッジョのボローニャ時代(1998–1999)は、彼のキャリアの中で最も純度の高い復活が起きた、奇跡のシーズンと言えるだろう。
目的はただ一つ「もう一度、自分のサッカーをする」
ボローニャ指揮官カルロ・マッツオーネは、バッジョ中心のチーム作りを推進し自由なトップ下でのポジションを与えたことにより、ボールは必ずバッジョを経由する。
移籍直後の開幕戦でいきなりゴールを決めたバッジョは、古巣ミランやユベントス戦でもゴールを記録するなど、ミラン在籍時の鬱憤を晴らすかのような復活劇を見せる。
31歳という年齢で完全復活を果たしたバッジョは、セリエA 30試合出場22ゴールを記録し、得点ランキングも3位に食い込む。
終わってみればこのリーグ戦22ゴールという数字は、バッジョのサッカー人生においてキャリアハイとなる得点記録となった。
もし、この復活劇が中堅クラブではなく優勝争いをしているビッククラブだとしたら、バロンドール候補にノミネートしても不思議はないだろう。
重圧から解放され勝たなければならないのではなく、楽しませればいい、失敗を許される環境こそがバッジョを完全復活に導いたのではいないだろうか。
「天才は環境で甦る」多くのイタリア人が「最高のバッジョは98–99シーズン」と賛辞の声を挙げるのも頷ける。
走らない10番の完成形として、ボローニャ時代のバッジョは過去でも未来でもない「今」の天才として美学の到達点に達したと言える。
在籍期間は1シーズンだったがボローニャで完全復活を果たしたバッジョは、1998年フランスワールドカップのメンバーにサプライズ選出されることになる。
1998年FIFAワールドカップフランス大会
今大会のイタリア代表には、デルピエロやトッティといった新世代が台頭していたことを考慮すれば、バッジョの選出は経験枠と言えるだろう。
大会当時31歳を迎えていたバッジョだが、グループリーグ初戦のチリ戦に先発出場を果たし、いきなり1ゴール1アシストを記録する活躍を見せる。
更にグループリーグ最終戦のオーストリア戦では、決勝ゴールを決める活躍を見せグループリーグ突破に大きく貢献。
決勝トーナメント初戦のノルウェー戦バッジョは、終盤のみの出場となるがイタリア代表はベスト8進出を果たす。
Embed from Getty Images準々決勝のフランス戦も途中出場を果たすが、試合はスコアレスのままPK戦にもつれ込む。
前回大会の悪夢がよぎる中、最初のキッカーに指名されたバッジョは見事にPKを成功させ、4年前の悪夢を自らの手で払拭する。
しかし、PK戦の結果はフランス代表に軍配が上がり、イタリア代表はベスト8で姿を消すことになる。
この大会のバッジョは「過去の英雄」ではなく「過去を受け入れた男」として勝つために目立つ必要はない、それでも責任は引き受ける
その姿勢がフランス大会のバッジョの姿であり、バッジョが人間としても完成した大会と言えるだろう。
1998-00シーズン:インテル在籍時代 41試合出場9ゴール
Embed from Getty Imagesボローニャで完全復活を果たしたバッジョは、1998-99シーズンにインテルに移籍することになるが、この移籍によって「北部のビック3」でもあるユベントス、ミラン、インテルの3強全てのクラブでプレーすることになる。
ロベルト・バッジョのインテル時代(1997–1998)は、彼のキャリアの中で最も苦しく、最も孤独だった時代でもある。
そして同時に、才能と組織が噛み合わなかった象徴的な時代でもあったのではないだろうか。
当時のインテルは、世界中からスター選手をかき集め多国籍軍とも謳われていたが、完成しないクラブとして批判も浴びていた。
「イル・フェノーメノ」こと怪物ロナウドも在籍していたこともあり、バロンドール受賞歴のある2人のコンビには大きな期待が寄せられていた。
Embed from Getty Images(ちなみにロナウドもCL優勝経験なし)※ロナウドに関しては別記事で解説して行きたい
しかし、ケガの影響もありロナウドとのコンビは、ほとんど見られなかったのは残念でならない。
トップ下不在、自由な中央ポジションがない、守備タスクを要求される、インテルにバッジョの居場所は無かったと言える。
インテルは「ロナウドのためのチーム」を作ろうとし、バッジョは「チームを整えるための選手」だった。
ボールを奪うと、前線のロナウドに預けて破壊的なドリブル突破に頼るという単純かつ明確な爆発力重視の為、ボールはバッジョを経由しない。
この移籍は間違いではなかったが正解でもなかった。
天才は環境を選び、組織は天才を理解できないことがある事を証明した1年であり「バッジョがインテルで輝けなかった」のではなくインテルが10番を必要としなかった。
大きなインパクトを残すことが出来ずに、2シーズン在籍したインテルを退団したバッジョには、イングランドやスペインのクラブからもオファーが舞い込む。
しかし、元バロンドーラーロベルト・バッジョが選手生命最後の地に選んだのは地方都市の小クラブ「ブレシア」だった。
2000-04シーズン:ブレシア在籍時代 95試合出場45ゴール
バッジョのブレシア時代は、彼のキャリアの最終章であり勝利やタイトルではなく、サッカーそのものを表現しきった完成形でもある。
33歳という年齢に加え、慢性的な膝の痛みを抱えたバッジョは、ビッグクラブでの競争から距離を置く決断をしたと言っていい。
元バロンドール受賞者でもある選手が、最後の地としてプレーするにはスモールクラブではあるが、いかにもバッジョらしさが滲み出ていると言える。
Embed from Getty Images更にブレシアの指揮官カルロ・マッツオーネは、ボローニャ時代バッジョにトップ下で自由なプレータイムを与え完全復活に導いた監督でもある。
2002年日韓ワールドカップ出場を目指すバッジョは、2001ー02シーズン前半戦はゴールを量産し孤軍奮闘の活躍を見せる。
しかし、またしても悲運に見舞われたバッジョは、前十字靭帯断裂という大怪我を負ってしまう。
全治6ヶ月という診断を受けたバッジョだったが、4度目のワールドカップ出場という自身の夢を叶えるがごとく、強靭な精神力でリハビリに挑み、なんと3ヶ月で復帰を果たす。
CL制覇が叶わなかったバッジョにとって、W杯制覇は自身のキャリアの中で最後のビックタイトル獲得のチャンスと言えるだろう。
この復活劇の裏側には、本人の常人離れしたサッカーに対する情熱とチームドクターはじめスタッフが一致団結した結果であり、努力の賜物であることにほかならない。
しかし、当時のアッズーリ指揮官ジョバンニ・トラパットーニは、バッジョを代表チームに招集することなく無情にも4度目のワールドカップ出場の夢はここで途絶える。
バッジョを招集しなかったイタリア代表は、辛うじてグループステージを突破するが決勝トーナメント初戦で韓国に敗れ16強で姿を消すことになる。
もし、経験豊富なバッジョを代表メンバーに招集していれば、この大会の結末は違ったものになったのではないだろうか。
クラブシーンでは、在籍した4シーズンで常に10ゴール以上を記録し、通算95試合出場45ゴールという記録を残す。
マッツオーネ監督との信頼関係は厚く、バッジョ中心のチーム設計であり、守備免除も許され途中交代もコンディションを最優先。
真に30代半ばで「王様待遇」を与えられたことは異例中の異例とも言える。
無理をさせないから壊れない、それでも決定的な違いを作れるバッジョは、セリエA最後の純血の10番と言っても過言ではない。
ロベルト・バッジョが現代サッカーに残したもの、それはトロフィーや記録ではなく「サッカーは人間の表現である」という思想そのものではないだろうか。
「サッカーは、うまくなくても勝てる。でも美しくなければ、記憶に残らない。」それを体現したのがロベルト・バッジョその人だろう。
ブレシア在籍時の有名なエピソードとして、現在では世界的名将として名を馳せた“ベップ”ことジョゼッップ・グアルディオラがバッジョとのプレーを熱望し、ブレシアへの入団を決めたともいわれている。
Embed from Getty Imagesそして2004年大きなセレモニーもなく、1993年バロンドール受賞者ロベルト・バッジョは静かにスパイクを脱ぎ現役引退を迎える。
「勝利よりも美しさ ― CLを制さず世界一になったバッジョという奇跡」
勝利よりも、戦術よりも、数字よりも。
「この選手こそがサッカーだ」そう思わせたバッジョは、数字以上に一瞬で試合を支配する力と観る者を黙らせる存在感を放っていた。
「CLを獲った者は多い。だがサッカーを代表した者はそう多くはない。」それがロベルト・バッジョであり、1993年のバッジョは「サッカーそのもの」だった。
CL優勝選手は強力な仲間達に支えられ、システムにも守られている、しかしバッジョは負ければ責任を負わされ、勝てば勝利の理由を一身に背負った。
当時のバロンドールは単なる「欧州制覇賞」ではなくサッカーを象徴した個を評価し、CLを獲れなかったことがむしろ“神話性”を高めたと言える。
現在のバロンドールの評価基準と、1990年代前半までは少し違う評価基準も存在していて、その年、最もサッカーを象徴した選手は誰かという論点。
そして1993年、世界はこう感じていた。
「この選手が今年のサッカーだった」と世界中が納得し、数字ではなく記憶と感情で選ばれた王。
完璧な王者ではないが誰よりも美しくピッチ上を彩った「ロベルト・バッジョこそ」サッカーそのものだと思わせた存在だったのではないだろうか。

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